Think 伊那谷を通して思うこと

アートハウス 交差点

16th

寒 日 和

 アートハウス12月最後の展覧会は、「菜(なな)やのお正月」である。菜やは伊那谷の木材を使って木工製品をつくることを生業としている。このお正月展では、スプーンや杓子などの台所用品、木の玩具や鏡餅などの小物から、テーブルや椅子といった家具まで並ぶ「お正月の用意はいかが?」展である。そして、ひときわお正月が来るぞと感じることができるのが、注連飾りづくりのワークショップ。指導者は栗やのヒロミさん。

 彼女は浪合村に移住してきた26年前に、平栗のジイチャンから手ほどきを受けた。神様が宿るものだから叩かない!手唾をつけない!幣束がつけば神様が宿ったということだから息をかけない!でき上がったら床に置くな!平栗のジイチャンは先代からのしきたりを大切に守り、次の世代に伝えていた。ジイチャンは藁一本も無駄にしなかったよ、とヒロミさんの話を聞きながら、注連飾りが完成。さあ!これでお正月の神を迎えられると参加者たちの満ち足りた顔。

 つい数十年前までは、あたり前のように男たちは里山の松や竹を伐り出し、どの家庭も立派な門松をつくり、柏手とともに神を迎えた。こんなふうに家中で神妙な気分を味わったものだ。半世紀の間に目本の経済は急激な成長をとげ、そうこうするうち生活改善という名目のもと、門松の絵が印刷された一枚の紙が各家庭に回覧板で回ってくるようになった。師走のせわしない時期になにも山に出かけなくたって、この紙さえ貼れば正月を迎えられるということらしい。生活改善とは悪いところを改めるという意味だろうが、門松をつくることがぜその対象となるのかが不思議だった。それでもやはり紙一枚では淋しいと思ったのか、誰もがスーパーの店先で松の枝を買い求め飾るようになったが、昔のような各家庭手づくりの見事な門松を目にすることはなくなった。こころを込めて行なってきたことが、いつしか面倒が先に立ち簡略化する流れが勢いづいてきたのだ。

 養老猛司は「脳化社会」と呼んでいるが、感性よりも頭で考えた理屈を優先させる現代社会、その限界を深く考えるようになったと彼はいっている。私たちは便利さを高める欲求を満たすために、より多くの貨幣を得ることを覚えた。貨幣を得ることで脳がよろこび、あれが欲しい、これが欲しいと求めては、今まで使ってきたものを全てゴミにしてきた。企業は私たちの欲や不安を刺激すればするほど、自分たちが際限なく成長してゆくことを知っているのだ。私たち消費者が我慢できない体質だと知っているのだ。不安をあおりたて、一日中コマーシャルを流し続ける。そうすれば地面に足をつけない巨大な消費社会がうまれ、脳だけで考えている社会構造ができあがる。

 霊長類学者の山極寿一は、人類がアフリカでチンパンジーとの共通祖先から枝分かれしたのは700万年前、狩猟具を待ったのは50万年前、大きな獲物を協力して狩るようになったのは20万年前で、人類の歴史のほとんどは、肉食獣から逃げ隠れし、集団で安全を守り合ってきた時代だったという。安全イコール安心。だから人間のからだの奥底には、協力しないと安心は得られないという経験が刻み込まれている。安心をつくりだすのは、相手と対面し見つめ合いながら、状況を判断する「共感力」が基となる。人間だけ白目があるのも、視線のわずかな動きをとらえ、相手の気持ちをつかめるように進化した結果だという。現代人と同じ脳になったのは60万年前得たのは7万年前だから言葉なしに構築した信頼関係だったといえる。言葉を使うようになって人類は急速に変化を続けている。みんなの共有地だったものが個人の財産になり、その財産を貨幣に替えることによってまた新たな社会が生まれ続けてきた。対人関係のストレスを消す為に物を買う。脱人間関係を求めて日本中がスマホを操作する。「イイネー」と指先で操作すると、その人と繋がったと勘違いする。つまり対面しないで信頼関係が生まれたような、安心を得たような気になるのだ。信頼関係というものは、もっとゆっくり時間をかけて育ててゆくものではないか。

 

声もたぬ雪大寺をつつむなり  京子

 

 アートハウスの隣人でライ麦畑で育ったナツオは、3歳になったこのお正月を獅子舞とともに過ごしている。今日もニコニコと獅子頭をかぶってやって来た。ちょっとだけ舞ったかと思うと、初対面のお客さんに近づいて、獅子の目でそっと咬みながら「病気にならないように」、「おめでとうございます」と耳元でささやくナツオ。珈琲飲みかけの客も、話に夢中になっているオバチャンも、極上の笑顔で「うわーうれしい!」と獅子に抱きつく。寒の日射しを受けて珈琲がもっとおいしくなった。

17th

繋がってゆく

 まだ一片もこぼさない桜が伊那谷を埋めっくそうとしていたこの四月、「全身マヒの猫サチと仲間たち」の写真展がアートハウスで聞かれた。撮影者は佐竹茉莉子。サチたち十七匹の猫と、ハッピーたち七匹の犬が暮らしているのは房総半島の真中あたり。四方を里山に囲まれた棚田を利用した草地に、オートキャンプ場と「ダム」という名のカフェがある。そのカフェに集う人々と動物たちの日常を切り取った写真展だ。

 陽のあたる里芋畑の中で寝ころがる猫たちに、「コレ」とやさしく声をかける近所のおばあちゃん。洗濯ロープに通したシャツが音をたてて乾いてゆく。遊びに来た少女が「サチー!」と声をかける。アー 馴染の客だ! いいものくれるかな……といそいそ出かける犬や猫たち。そんな風景の中で全身マヒのサチは育った。

 十年前、街中に捨てられ地面を這いずっていたサチ。抱きかかえるとブルブル震えていた。心ある人から人へ、そしてこのダムにやってきた。そこにいたのは、捨てられたのか迷子になったのか、腹ペコで保育園にたどりついた犬のハッピー、骨折したまま花屋さんのバケツに入れられていた猫のミカン、ボス争いに負けて引きこもりになってしまった猫のイチロー、山猫のようなノラ猫がやってきて、ガツガツごはんを平らげ又山にもどって行く前に産み落としていった五匹の子猫。そんな仲間たちと生活しているうちに全身マヒのサチに奇跡がおこった。

 まるで動けなかったサチが、壁に体を押しつけるようにして立ち上がった。そうすると一歩、また一歩と足を踏み出す。バタンー!と倒れる。倒れるとハッピーがかけつけ、サチの顔をペロペロと砥める。体を揺らしながら、コトンと階段を一歩おりる。でもすぐにバタンー! すると又誰かがとんできてペロペロ。

 全身マヒの猫が立とうとする意志とエネルギー。ペット化していない犬や猫たちの暮らし。そしてそれを見守り続けるカフェの経営者。彼女は、私は忙しいから動物たちに弱いものの世話を頼んでいるという。もともと持っている野生の本能だろうか。自分の受けた愛情を次にやってきたものに注ぎ、より弱い存在を愛おしみ見つめる動物たちの世界がここにあった。人間社会では、どこかに忘れてきてしまった共生。

 そんな十日間の写真展。私は会って、もいない大や猫たちと、ピクニックに行っているような錯覚さえ覚えた。私が子供だった頃、村全体が遊び場で、子供たち同士群れて遊び回った。喧嘩をすれば、近くの畑の大人がじっと観ていてくれた。遊び疲れてクタクタになれば、年長者が手を引いてくれた。集団で畦道を走って、どこかのジイちゃんに「コラー! 畦が崩れる!」と怒鳴られた。川を渡れなくて泣いているものがいれば、誰かがガンバレーと声をかけた。村中が遊び場で、村中が子供たちを育ててくれた。子供たちは意見のちがいで喧嘩になる。その喧嘩で泣きながら、ひとりぼっちの淋しさを知り、集団生活の愉しさも厳さ

も体験しながらルールを身につけてきた。

 

 自分の代わりに法務省の刑事局長に答弁させるほど、法務大臣でさえ答弁が危うい共謀罪法案が、折しも強行採決された。テロリズムと共謀罪を同じ視点で考えていいのだろうか。私たちが何を考え、どんなことを思いめぐらせるかは、生まれながらに持っている自由であり基本的な権利だ。心の内にさえ入りこんでくる共謀罪とは、個人の権利を奪うことに他ならない。恐怖心をあおり立て、その恐怖心で人を縛ろうとする。入は思うことすら不安になる。おまけに東京オリンピックまでに改憲を成立させようなどという強引な弁。力には力で抗するという発想は、衝突をもたらすだけだ。それが悲惨な結果を生むことを日本の国は学んだはずなのに。その経験を踏まえてつかみ取った国民主権、人権尊重、平和主義だったはず。それに守られて敗戦後の七〇年があったことを忘れてはならない。憲法九条は、日本の財産なのだ。

 

 毎年冬になると、わが家で一番陽のあたる場所にある簡易室がお気に入りだった猫のチイが、昨年の初冬に死んだ。この冬、室に入ってみると、アートハウスのサラダには欠かせない大根の頭が誓られていた。ハクビシンや狸でもなさそうだし……そうか、鼠だ!天敵の猫がいないことを知ったのだ。

 ある日、畑の真中に積み上げてあった枯草や野の芥を燃やそうと火を放った。小気味よい音を立てて燃え上がった。ライ麦畑で育ったナツオも、ナツオの母親も畑をさらって枯れた野菜くずを集めてきた。炎の中にサツマイモを放り込む。近づけないほどの大きな火に見人っていると、誰かが「鼠だ!」とさけんだ。熱さに耐えかねて枯草の中から飛び出したのだ。ナツオが追いかける。全員で追いかける。草むらの中に追いつめた。すばしっこい生き物を三才のナツオがじっと見つめている。殺せない。ナツオの母親が「お願いだから家に入ってこないでね」とつぶやいた。

 

少年の鏃(やじり)ぴしりと夏に入る 京子

18th

「人形」が生きている

 アートハウスのある上郷黒田が、まだ下黒田村と呼ばれていた元禄年間のはなし。この村に住んでいた正嶽真海という僧侶が、村の若者たちに人形浄瑠璃をおしえたことが黒田人形のはじまりといわれている。当時、大阪で大流行していた浄瑠璃に合わせて人形を操る人形浄瑠璃である。

 娯楽などほとんど無い時代に、好奇心の強い若者たちが飛びついたことはいうまでもない。毎晩、三味線を弾いて浄瑠璃を語り人形を操っているうちに、とうとう産土様で人形浄瑠璃を奉納することになった。若者たちは水を得た魚のように、来る年も来る年も競い合って稽古に励み奉納したが、それは素人の物真似の域を超えるものでは到底なかった。

 そうするうち元禄から享保にかけて全盛を誇っていた大阪や淡路の人形芝居も、時代と共に新しく台頭してきた歌舞伎に観客を奪われていった。演じる場所を失った人形遣いたちは、新天地を求めて地方へと旅にでた。下黒田村にやってきた吉田重三郎もそのひとりである。下黒田村の若者たちを前に、重三郎は人形を取り出すと、浄瑠璃を口ずさみながら一手二手とやってみせた。若者たちは息をころして見つめ、そしてつぶやいた。「生きておる。人形が生きておる」。こうして伊那谷黒田の人形芝居は素人離れした本格的なものへと歩み始めたのだ。吉田重三郎がこの地、黒田の入念寺に葬られたのちも、桐竹門三、吉田亀蔵、吉田金吾、そして文楽座五代目桐竹門造らの指導を得て、若者たちは高度な芸をひたむきに学び取っていった。

 天保10年正月、下黒田村総寄り合いの席で、名主の金左工門は人形舞台の改築を提案。しかし凶作続きで、飯田の殿様からは質素倹約令が出されていた。「質素倹約は大事だが、人形芝居は産土様へ奉納するものだ。そのための舞台を造ることは決してぜいたくじやねえ。村中の者で木を伐ったり木舞掻きをすればいい。真心から神様を崇める気持ちが大事なんだ」と、人形舞台を改築することに決定した。

 人工の棟梁は和泉証書兵衛、人形師たちの助言を得ながら村人総出で天保11年黒田人形の舞台が完成した。8間の長い桁がかかった大きな舞合の中に、通し柱はたった二本という見事な力学的構造である。日本に、いや世界にたったひとつの浄瑠璃舞台を村人が自らの手で造り上げたのである。以来、300年以上もの長い年月、そのままの形で毎年の春祭りに黒田人形は奉納されている。

 

秋の水村の生きざまうつしをり 京子

 

 毎年、黒田人形を観にやってくる多くの人々の中に川本喜ハ郎がいた。「私も旅人のひとりになりたい」といって、彼が息を吹きこんだ人形達とともに伊那谷にやって来たが、夢であった定住が叶う前に病に倒れた。人形達は旧市街に建てられた「川本喜ハ郎人形美術館」に遺されている。

 また人形劇団ひとみ座の須田輪太郎と現代人形劇センターの宇野小四郎

は、黒田人形に出会い、この土地の文化風上に感激し、この地で人形劇人の祭りを開催できないものかと当時の飯田市長・松澤太郎に申し出た。

 当時の飯田市は、市長を先頭に地方自治の活性化をもとめて模索を重ねていた。合併で生まれた16の支所に公民館を並立させ、地区の住民が自発的に参加し活動することを目指していた。どの公民館にも図書館があり公民館主事がいて、いつも住民が集まっていた。住民たちが健康で文化的な生活をおくることを目的にした活動に、この人形劇人からの申し出が生かせるのではないかと市長は感じ取った。

 集ったすべての劇人は手弁当で参加。観劇者はワッペンを購入し、それがどの劇場でも共通した入場券となる。文化会館など市の中心部にある施設だけでなく、16の公民館を活用し地域の人たちが担い手となる。こんなふうに観るものを育て、演じ手を育て、支え手を育ててゆく人形劇カーニバルは誕生した。今から40年前のことである。

 

草紅葉みえざる山をいとはしみ 京子

 

 木犀の香りはしめた青空を眺めながら珈琲をたてていると、あの時の少年の声が聞こえてくる。「これから第1回人形劇カーニバルを始めます」。

 スピードを上げて変化してゆく日本の中で、300年たっても変わらない伊那谷のこころがここにある。

 私たちは続けることの困難さの中で生きている。困難なことに出あったらもう一度出発点にこころをもどしてみよう。きっと何かが見える。

19th

塩梅

一月の川一月の谷の中 龍太

 

 私の元旦は、飯田龍太の俳句を思い浮かべることからはじまる。四十雀にひまわりの種を、雀たちには玄米を与えてから自分のために珈琲をたてる。元旦というちょっと特別な気持ちの中で、冬の陽に吸い込まれそうになるのを楽しむ。

 人に会うたび、「いいアンバイでございます」と挨拶し合った日本の言葉 と心持ちを美しいと思う。「いい塩梅で」という、状況に応じて手加減をくわえながら余白を生かす言葉、その余白がこの国の文化を創ってきたと思っている。

 ところが、良いも悪いも表裏一体の社会の中で、イエスかノーか決めてくださいと決断を迫られることは少なくない。あまりにも窮屈になってしまうことが一方でわかっていても、ルールで決めてしまう方が明確だと考えるからだろうか。ノーと言いたいのに黙って従う。決まってしまえば、何も考えない。皆と同じ方が安心だ。だからスマホでポンと表示された事柄を、よく吟味せず呑みこむ。

 庭の蠟梅のつぼみがひとつ黄色に膨らんだ。明日にでも咲きそうになったから花瓶に入れたが、いつまでたっても咲かない。1週間たつうちにつぼみがポロポロ落ちるようになり、あわてて水切りをして暖かい所に置き直したが、まだ咲かない。ある日、雨が降って太陽が差し込んだとたん、咲いた!咲いた!

 

蠟梅の闇をつめたくしておかむ 京子

 

 無理して咲かせた花は一見鮮やかに感じるが、あっという間に汚れてしまうものだ。

 私たちは、自分の脳や筋肉が本来持っている機能のほとんどを使わずにいるらしい。人類が地球で生活し始めた頃は、どんな脳とどんな筋肉を持っていたのだろうか。『身体能力を高める和の所作』を著した安田登によれば、近頃の子供たちの様子がちょっと変

わってきたという。話をするために正座をさせると、できない子が何人かいる。ひざを折って座ろうとすると、後ろ側にゴロンとひっくり返ってしまうのだ。かかとにお尻を乗せるという形がとれない。子供たちが走る姿を見ると、ひざから下しか動かさないで走っている。つまり、すねがピョコンピョコンと後ろに上がっているだけで、体が前に進んでいない。体の使い方を知らないということのようだ。人間の運動は脳によってコントロールされている。走るときには脳が「走れ」と命令し、こうやって筋肉を動かせと指示を与えている。脳が出した命令は、神経を伝わって各筋肉を動かす。この仕組みを脳神経システムという。体の使い方を知らないということは、この脳神経システムに問題があるということらしい。自分のことは話せるけど、「いつ、誰が、何を、どうして、どうなった」という文脈の中で話をしてゆく事ができなくなった。食生活の変化なのか、テレビゲームやコンピューターの普及なのか、そんな単純な理由だけではなさそうだ。残念ながら決定的な理由はわからない、と安田は記している。

 私たち人間は、どこに向かって進化してゆくのだろう。「いい塩梅でございます」というような、日本人のもつ余白の部分はどこへ行ってしまうのだろうか。

 ライ麦畑でハイハイしながら育ったアートハウスの隣人、ナツオも4才になった。後ろ姿など好奇心のかたまりそのもので、今日も隣の兄ちゃんに手伝ってもらいながら、獅子の鬘と尾を仕上げた。獅子舞を演じる時の足腰が一丁前になってきた。その気になると、キョウコさーん、アートハウスヘ獅子持って行っていいですか?と声をかけ、お客さんたちに舞ってくれるのだ。

 そんな彼が、みんなと出かけた里山で迷子になった。雑木林でひとり遊びをしているうちに、気づいたら誰もいなくなってしまっていたのだ。カアチャン、トウチャンと泣いているところに、犬を連れで散歩している女の人がやってきた。その人に泣きながら自

分の名前が言えた。大人達に連絡をとってくれて、ナツオは無事にみんなと合流することができた。緊張と不安を体験し、その不安をのりこえた自信も得た。

 迷子など二度と経験したくはないだろうが、経験したことのない不安の中でいろいろ考え、使ったことのない脳も作動させたにちがいない。そうか、今度迷子になったらヒトに聞けばいいんだ!と母親に伝えたという。

 ますます複雑になってゆく世の中に、引きずられない私たちでいるために、もう一度よく考えなくちゃ。私たちは自分たち自身でつくりだした壁を、いくつもいくつも越えなければならない。時代と共に変化してゆくものと、千年たっても変化しないものをちゃんと判断できる力を持ちたい。正しく判断できる力の礎が身につくのは、20代までだそうだ。

20th

臍を正す

この冬は寒かった。その寒さの中を、「風邪ひいちやった。ゴホン、ゴホン。珈琲ください」とやって来てくれるお客の多かったこと。たとえ村中が風邪をひいても私はひいていられない。だからゾクゾクと感じた時は置き薬を使う。これがまた私によく効く。仕事など放りだして帰っちゃおうかと思っていたのに、風邪薬をポイと含めば、窓拭きなど始める始末。

 ところが寒さが弛みはじめた2月末頃から、突然体中が痒くなってきた。初めは腹のあたりだったのが、次の日には肩から背中、そして指の先まで。痒い!カユイ!痒い! それでも30分ほど掻きまわすと、大騒ぎしていた雀たちが一斉に飛び去るように痒みは消える。そんな析、2年に一度チェンマイから帰国するテラサワキヨ氏の治療を受けた。治療を始めたとたん、「アッ! 臍がずれてる……」と彼女がつぶやいた。思いがけない言葉だったが、[ああ、やっぱり」と腑に落ちるるものがあった。毒を溜めこんだ私の肝臓が臍を引っぱっていたのか、と。

 初めて彼女に出会った2年前、彼女は雑踏の中に修行僧の風を身につけて立っていた。彼女の発する気がスーツと私の体内に入ってきたのだ。そんな体感を得てから、2年に一度の邂逅を心待ちにしている。

 風邪薬は風邪を治すための薬だが、飲み続けるということは体内にどんな物質が溜ってゆくのだろうか。一年間スケジュールを立てて毎日を送っていると、自然治癒を待つということができない。しかし、このアレルギー!私たちの暮らす日本は、この風邪薬のように、便利な対処方法がいくらでもある世の中になっている。食事にしても、安くてすぐ食べられるものが24時間提供され、いつ、どこにいてもスマホをポンと操作すれば、何でも教えてもらえる。迷ったり、考えたり、実践

しなくても回答は用意されている。そして、「風邪ぐらいで休むな!」という声がどこか遠くで聞こえ、この35年間病気で休業したことのないアートハウスを、「ごリッパ!」と誉めてくれる世間の声。世の中のさまざまな声に合わせようとする私がいるが、今回のアレルギーはもう放置できない。

 テラサワキヨ氏の治療を受けながら、まず解毒から始めた。人間には自然治癒する力もあれば、紆余曲折を経て良い方向に向かう心の余裕も持てるはずなのに、結果ばかりを最短距離で追ってしまいがちな私たち。なんのために、どこへ行くために結果ばかりを求めているのだろうか?

 

だれかれの臍のごとくに蕗の薹  京子

 

 私のアレルギー騒ぎの最中に、アートハウスに少年二人の声が届いた。

 阿南町和合産オニグルミ・約75g・500円と書かれたダンボールの看板と共に、「阿南町和合に住むオグラマサシ(12)といいます。同じ和合に住む友達(12)と、春休みに自転車旅行に行く計画をしています。(5日間ほど甲子園へ行って、高校野球を観てくる予定です。)今、そのための資金集めをしています。周りに落ちているクルミを拾ってそうじをし、干して殼をむきました。それを売る方法を父に相談したところ、アートハウスに置かせてもらえることが決まりました。ぜひお買い上げください」と、最後に二人の写真が貼ってあるメッセージが届いた。

 まだ3月だから雪だって降るだろうにと、甲子園の方向を地図で確かめながら料理をする。野宿する場所を探し、ひたすら自転車を漕がなければ、甲子園にはたどり着けない。なんだか私までワクワクしてきた。お客たちに「クルミ買ってよ!」と大宣伝したいところを、グッと我慢する。しかし目ざといお客は、すぐに挨拶文を読み、「おっ、買う!」と言って500円玉を箱の中に入れてくれた。「クルミってこんなにおいしかった?」「柚餅子を作るにはこれがなくっちゃ!」「気をつけて行ってらっしゃい!」と手紙やカンパも箱に入れられた。完売だった。3カ月ほど経った3月18日、彼らは旅立って行った。

 一方、アートハウスのフリースペースでは、原口陽一氏の「地球のさんぽときどきごはん」という展覧会が始まっていた。55カ国を旅してきたという原口氏の、吹きだしてしまいそうなエッセーとイラストを楽しませてもらった。「旅へ還る」という彼のコメントの最後に、こんな言葉をみりけた。「見知らぬ国で途方に暮れることは必要なのですよ。頼れるのは自分だけ。すると何かが体の奥からむくむくと頭を持ち上げてきます。眠っていた脳細胞が目覚めます。自分はこんなことも

できるのだ。やるじゃないか……と」

 

掌はあかるきところ囀れり  京子

 

 「ただいま!」とオグラマサシ君から旅の報告が届いた。野宿しようと思った駐車場から追い出されたり、トラックの運転手さんにカップラーメンをもらったり、生き生きとした体験が綴られていた。これが彼らの一生の財産になり、彼らの生きる力として蓄えられる。どうぞ彼らの旅の記録を、アートハウスに読みに来てください。

 

少年をつつみこみたる麦は穂に  京子

21th

同調

 アートハウスがBGMを流さなくなって30年程になる。それまでは朝10時から最後の客が帰る夜10時過ぎまで、一日中何らかの曲が流れていた。ある日、ボロボロに疲れ果てた体と、クタクタになった私の脳は電気音を拒絶しはじめた。BGMを止めよう。何がサービスなのか、もう一度考えようと。

 BGMを止めた日、「静かだ……珈琲ください」とつぶやいた青年。「お店はBGMをかけるのがあたり前じゃないの?」という客。大勢の客がいるにもかかわらず「営業していますか?」とのぞく人。「街中音が溢れているけど、ここは静かでいいね!「ミスミ草見ながら珈琲飲めるなんて、しあわせ!」スミマセン、胎教のために音楽流してくれませんか?」などなどがBGMが無くなった一週間くらいの客の反応。その後は次第に誰も何も言わなくなり、BGMが流れていないことに気がつかないアートハウスになった。

 ノラ猫が店内をのぞき、迷い込んだついでにカラスアゲハがひと回り。窓からシジュウカラやヒヨドリの巣立ちを固唾をのんで見守る。知らない者同士が生きてゆくことの意味を語り合い、ふと立ち寄った家族がアートについて大討論を始める。これがアートハウスのBGMになった。

 

龍太全集こほろぎのきて鳴けり 京子

 

 国谷裕子と坂本龍一の雑誌に掲載された対談の中に、こんな話がでてくる。坂本が8年ぶりに出したアルバム「async(エイシンク)」、同調しないというタイトルの意味するものは、と国谷が問うたのに対し、坂本はこう答える。世界中には同調を基準にした音楽はあまりにも多く、普通の人は同調しない音楽というものを想像することさえ難しい。これは考えるという知的レベルの話ではなく、生理的に同調してしまうからだ。その例として、10人20人の人を集め、それぞれ好きな高さでアーと声を出してというと、5分から10分くらいで同じ高さになってしまう。好きなリズムで手を叩いてといっても、同じように絶対に合ってしまう。これに同調しないためには、強靭な意志が必要なのだと坂本はいう。それを受けた国谷は、テレビもまたそうだと応じている。映像の力はとても強く、強烈な映像を見ることで、人々の想像力を奪うと同時に感情の一体化をもたらしやすくなる。そのため意図しなくても、みなが同じようなことを思ったり考えたりすることがあるというのだ。映像は決してすべてを見せているわけではなく、一部だけを見せているに過ぎないのに、である。

 二人が言っているように、刺激的な映像や共感を促すような強い感情が世界中に拡散されれば、「常識」と思っていることなどいとも簡単に覆され、生理的な同調が支配してしまうことも可能なのだ。瞬く間に、地球規模でばけもののようなものが生まれかねないというわけか。

 近々行なわれるであろう改憲の国民投票運動をめぐり、日本民間放送連盟はテレビやラジオのコマーシャルの量的規制をしない方針だそうだ。資金力のあるものが大量にCMを流せばどうなるのだろう。放送局側はどんな判断をするのだろう。生理的同調などごめんだ。

 

眼(まなこ)ひらきて秋風の大地かな  京子

 

 今日から福田紀子の「瑠璃寺のみえる畑の藍展」が始まった。近くに里山をもつ杉の本工房の福田渉さんと紀子さんは、御両親から譲り受けた農地で水田や果樹を育て、干し柿を作ったり、野の動物たちと睨みあいながらブルーベリーやサクランボの農園を営んでいる。渉さんは、家畜というより家族である山羊の乳からチーズをつくり、木工家具を製作する。紀子さんも年間を通して家の仕事に携わるとともに、自分で育てた藍と様々な国の藍を使って、藍の型染めを生業にしている。毎日の暮らしの中に存在する、山羊や舞い込んでくる蛍、メダカ、家の周りの草花、季節の移ろいとともに変化する天体をスケッチし型を彫る。藍を育てることから始め、発酵させ建てた藍で何度も何度も染め上げる。頑固でなければできない作業。その一徹さで染め上げた藍染め展が始まる。

 ライ麦畑でハイハイしながら育ったナツオも5歳になった。今日も、「キョーコサン、チユウシャジョウガカリやっていいですか?」とやってきた。梨の本の下に椅子を出し、棒を持って座り、客を待つ。「ア!お客さんだ!」「アートハウスは空いてますから、どんどん奥に入ってください」とナツオ。「坊や、遊んでるのか?」「ちがう!遊んでいるんじやない!」とナツオ。ナツオは本気で駐車場係をやっているのである。

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