Think

伊那谷を通して思うこと

アートハウス 交差点

25th

侘助(わびすけ)の花

    12月頃から毎日ひとつふたつと咲いていた純白のちいさな侘助が、正月からの暖かさに勢いを増して開き始めた。いつもだったら雪や深霜にやられ、ヒヨドリに芯をつつかれ、黒くなった花たちの奥の方に開いた花の白さに足をとめて覗きこむのだが、今年は見事に全身で咲き誇っている。大地から水を吸い上げ、咲いては散り、咲いては散る潔さは、見ていて気持ちのいいものがある。今年は意を決して、直径三センチ程の技を鋸でばっさりと切り落とした。その大技を活けようとアートハウスの玄関に運び込んだとたん、店内に野の風が吹き、円やかな時間が流れ始めた。

 侘助のように一緒にいてくれる花も私の生活には欠かせないものだが、そういう親しみを持たせない、凛とした厳しさを持つ花にも魅力を感じる。同じ白でも朴の花は一線を引いて、私を近づけさせない気高さを持つ。完璧な青空に立つ孤高が、また別の私を刺激するのだ。

 季節がめぐれば、木は同じように花をつける。今咲いたばかりのこの侘助と、この木が30年前に最初につけた花とは違いがあるようには思えない。花は昔のままなのに、人の世の変化はどうであろう。本来、人間は考える生き物だったはず。ところが、ますます性能を高めるAIに、人間に代わって判断を任せる領域はどんどん増える一方だ。私たち人間は思考する能力を、このままどんどん失ってゆくのだろうか。それとも……。

 

この青空に初雪という一花  京子

 

 縄文時代から、いやそれ以前から私たちの暮らす日本列島では、地震、津波、台風、洪水、火山の噴火などの災害がいたるところで繰り返されてきた。近年では阪神淡路大震災、そして東日本大震災の津波と放射能汚染による複合災害、温暖化による台風の巨大化など、規模も頻度も増してくる災害の中にあって驚くのは、こんな災害列島に暮らしてきた日本人のじっと耐えてきた辛抱強さだ。

 自然を畏怖し、神に祈りと感謝を捧げてきた先祖たちは、災害のたびに人の世のはかなさを知り、「無常」ということを受け入れてきたのだろう。大地が崩れ、埋もれ、流されても何度でも堤防を築き、田畑を広げ、疏水を引き、隧道を掘るだけの知恵と技術と根

気強さを持っていた,自然の力の強大さに踏みつけられても、無常を知る先祖たちは、奢ることなくコツコツと生活を取り戻してゆく逞しさを持っていたのではないだろうか。

 

湯湯婆(ゆたんぽ)のどこか心音してをりぬ  京子

 

 世界中で貿易摩擦が生じ、温暖化の影響が深刻化してゆく中で、この国の首相は政治は権力だと勘違いし、国会ではごまかしと言い訳ばかりを繰り返す。そしてこの国は、低い出生率と高齢化による人口減少という型から脱け出すことができないまま、新しい年を迎えた。経済の成長期に働き通した団塊の世代は、家庭貯蓄率が高いのに、社会に不安を感じていて個人消費も行き詰まっているという。というより豊かさを経験してきた世代の家庭には、もう物は十分に溢れているのだ。物が溢れる一方で、擦り減っていったのは心なのかもしれない。豊かになっても、命を繋いでゆくことの意味を見失ってはいないだろうか、命より経済の動向が重視され、温暖化が引き起こす自然界の異常も、放射能がばら撒かれた森や海も後回しにされる。

  たったひとつのこの地球には森があり海があり砂漠があり、そこに生きる動物がいる。風が吹き雨が降り、太陽が植物を育て、見たこともないような虫や微生物も棲んでいる。人間は、その地球のほんの一隅に暮らしているにすぎない。都会にいると、あたかも他の生き物など存在しないかのように、人間だけの世界を構築しているようにみえる。

 数学者の森田真生は「人間でないものたちと共に生きる」という文章の中で、人間の腸管には百兆個を超える微生物がいる。この微生物を失ってしまえば、食べ物を消化することができない。人体の三十七兆個の細胞には何百のミトコンドリアがいて、遠い過去私

たちの細胞の先祖と共生を始めた彼らが、今もせっせと細胞にエネルギーを供給している。今日食べた野菜たちの栄養は、土中の菌根菌のネットワークの賜物である。人は、いつも人でないものたちと共に生きているのである、と言っている。

 私たち人間はどうも人間だけで生きていると勘違いしやすい。除菌、殺菌と神経をすり減らし、多量の医薬品と栄養補給のサプリメントで健康を維持しようとする。そうするうちに地球に暮らすさまざまな生命体の存在と必要性を忘れてしまっていないだろうか。共存することの意味をもう一度思い出す必要があるだろう。

 ライ麦畑のナツオは、この春一年生になる。この前、かあちゃんと一日入学に行ってきた。学校からの帰り道、小学生のお姉さんたちが「あの子、今度一年生になるんだね」と囁き合っているのが聞こえた。「こうやって歩くの、いい気分だなァー!」とナツオ。ライ麦畑でハイハイしていたナツオは、四月に一年生になる。

 

 

 

 

 私が俳句を知った昭和50年代は経済が安定成長期にあり、私達の暮らしも社会も目まぐるしく変わっていった。と同時に俳句人口も俳誌一気にふくれあがる最中であった。五七五と指を折ることに精一杯であった私は年一度は龍太先生の出席する雲母の句会に参加した。飯田蛇笏の精神に触れ、俳句の純度というと、選について、俳壇の話など痛烈な批判やユーモアを交えながらの龍太先生の簡潔明快な話に惹きつけられていった。

 

千里より一里が遠き春の闇  遅速

 

「春の闇は神秘的で、それと定めがたい不安な感じもあるだろう。更夜、家路をたどるおのれの靴音が、身を離れて宙に泛くおもいがする。闇に中に未生と滅後のいろがひそむ」と飯田龍太は春の闇について語っている。

 千里より一里が遠いという矛盾したことばがこんなにも説得力があるのは、単に浮かんできただけのことばではないからだ。大衆の流れのなかで、ともすれば見失い颯になる俳句倫理。しかし見識を持って見つめれば遠のけば遠のくほど明確になり、身消滅後のいろの潜む春の闇の中であざやかになる。

26th

歴史の途中 

 アートハウスのささやかな庭には、鳥の巣箱が夏椿に白雲木にそしてハナミズキにと3カ所架かっている。昨年は、人間の都合で子育ての場所がなくなった雀たちに巣箱を乗っ取られてしまい、賑やかな初夏だったが、今年はいつものように、四十雀のつがいが苔のようなものをハナミズキの巣箱に運び始めた。巣作りが始まったのである。

 いつだったか、巣箱の中をのぞいたことがあるが、彼らは抜群に綺麗好きである。乾いた苔などを厚さ5㎝ほどに敷きつめ、雛たちのためにフカフカのベッドを用意する。孵卵した後の殼だって、毎日の雛たちの糞だって、巣箱に残しておくことはない。その美しさは清潔簡で、私が生まれた頃の日本の家屋に似ている。竹の枝でつくった竹箒、箒草でつくった土間箒などを使い分け、身のまわりを整えた。生活に必要なもの以外何もない、簡素な美しさを保っていた。そんな家屋に似ている。

 ある日のこと、屋根のあたりにいた雀や四十雀がジィージィージィーと警戒音を放ちはじめた。はじめはクマンバチだろうと思っていたが、どうも騒ぎが収まらない。そのうち客のひとりが「蛇だ!」と叫んだ。どこ?どこ?ほら、あの枝!あっ、次の枝に移った!あそこに蛇の頭が……。何とかしないと四十雀が危ない!

 奥のテーブルにいた女性が「私、マムシ捕ったことがある。平気だから」と三脚にのぽり、雨傘の柄で蛇をひっかけたとたん、消えた。蛇が消えた。雨傘の柄に驚いたのかどうかわからないけれど、蛇が忽然と消えたのだ。それから蛇が出没した不安をぬぐいきれないまま、2週間ほど経った。あんなに賑やかだった巣箱が閑かになり、木洩れ日だけが揺れていた。無事、巣立鳥になったとしておこう。

 

万緑の巣箱が息をしてをりぬ 京子

 

 中国の武漢で発生した新型コロナウイルスはまたたく間に地球上を覆い、人間社会の経済をストップさせたが、はるか昔から人類はさまざまな疫病と出会ってきたのである。日本書紀に最初の疫病が記されているのをはじめ、天然痘、咳逆(インフルエンザ)、麻疹、コレラ、スペイン風邪……。スペイン風邪においては国内の死亡者が39万人といわれている。

 疫病が大流行するたび、人々は予防や快復を願って錦絵を求め祈った。その錦絵が浮世絵へと発展して、江戸の文化をつくった。平安京の庭園で、66本の鉾を立てて疫病の退散を願ったことからはじまったハ坂神社の祇園祭も、全国に広がっている祭りの基といわれ、その風土の特性を加えながら現在まで各地で伝えられているのである。

 疫病が大流行するたびに医学の進歩がみられ、苦しんだ庶民の中からは、また別の新しい文化がうまれてきた。そして突然のこのコロナウイルスで、絶対的幸福と思っていたグローバル化した経済が、いかに脆いものか私たちは知ってしまった。今まで必要でなかった知識で日本中が、いや世界中がマスクをし除菌を行ない、今まで考えたことのなかった社会の中で立ち止まってしまった。過去に何度も何度も起きていた疫病と、また出会ってしまったのだ。疫病と人間は切り離すことはできないらしい。その長い歴史の上に立っている今、不安だからこそ、

立ち止まって考える必要がある。人間はもともと逞しい生きものなのだ。新たな価値観を発見する時なのかもしれない。

 

白詰草赤詰草と刈られをり 京子

 

 コロナウイルスが飯田の日常に影響を及ぽしはじめた4月に、アートハウスでは加山隆展が行われていた。加山隆は芸術大学を卒業後、4年ほどドイツカッセル大学で学んだ後帰国。個展やグループ展を重ねてきたが、飯田での個展は初めてだった。油絵といっても、風景や人物を描いているのではない。白い平面のどこかで、黄色っぽい色がぼんやりと浮かんでいる。その色は、絵の具をこすりつけた画面をサンドペーパーで削る、絵の具を置いてまた削ることで生まれる。毎日毎日その繰り返しが染みの深さをつくりあげてゆくのだろうか。

 展覧会の初日に、気になった作品の前から動こうとしない女性が現われた。フリースペースである展覧会場の空気が、やわらかな緊張感をもってカウンターまで響いてくる。

 加山隆はこう言っている。2002年頃から作品の表面を平らにすることをはじめた。凸凹していることが邪魔に思え、サンドペーパーで削った。ある日、私の作業が時間というものを塗り込める作業になっていることに気がついた。母が亡くなった時も、毎日絵の具をこすりつけ、サンドペーパーで削った。父が亡くなった時も、ひしひしと孤独を感じていた時も、サンドペーパーで削っていた、と。

 二度も三度も作品の前に立ち、「あかるい」とつぶやいていた女性。継続によって裏付けられたこの作品は、みる人の心の奥まで染めていたにちがいない。満たされた1週間であった。

 

伊那谷を通して思うこと
侘助(わびすけ)の花
  歴史の途中 
home gallery think such access/contact
伊那谷を通して思うこと
侘助(わびすけ)の花
  歴史の途中 
home gallery think such access/contact