Think 伊那谷を通して思うこと

アートハウス 交差点

16th

寒 日 和

 アートハウス12月最後の展覧会は、「菜(なな)やのお正月」である。菜やは伊那谷の木材を使って木工製品をつくることを生業としている。このお正月展では、スプーンや杓子などの台所用品、木の玩具や鏡餅などの小物から、テーブルや椅子といった家具まで並ぶ「お正月の用意はいかが?」展である。そして、ひときわお正月が来るぞと感じることができるのが、注連飾りづくりのワークショップ。指導者は栗やのヒロミさん。

 彼女は浪合村に移住してきた26年前に、平栗のジイチャンから手ほどきを受けた。神様が宿るものだから叩かない!手唾をつけない!幣束がつけば神様が宿ったということだから息をかけない!でき上がったら床に置くな!平栗のジイチャンは先代からのしきたりを大切に守り、次の世代に伝えていた。ジイチャンは藁一本も無駄にしなかったよ、とヒロミさんの話を聞きながら、注連飾りが完成。さあ!これでお正月の神を迎えられると参加者たちの満ち足りた顔。

 つい数十年前までは、あたり前のように男たちは里山の松や竹を伐り出し、どの家庭も立派な門松をつくり、柏手とともに神を迎えた。こんなふうに家中で神妙な気分を味わったものだ。半世紀の間に目本の経済は急激な成長をとげ、そうこうするうち生活改善という名目のもと、門松の絵が印刷された一枚の紙が各家庭に回覧板で回ってくるようになった。師走のせわしない時期になにも山に出かけなくたって、この紙さえ貼れば正月を迎えられるということらしい。生活改善とは悪いところを改めるという意味だろうが、門松をつくることがぜその対象となるのかが不思議だった。それでもやはり紙一枚では淋しいと思ったのか、誰もがスーパーの店先で松の枝を買い求め飾るようになったが、昔のような各家庭手づくりの見事な門松を目にすることはなくなった。こころを込めて行なってきたことが、いつしか面倒が先に立ち簡略化する流れが勢いづいてきたのだ。

 養老猛司は「脳化社会」と呼んでいるが、感性よりも頭で考えた理屈を優先させる現代社会、その限界を深く考えるようになったと彼はいっている。私たちは便利さを高める欲求を満たすために、より多くの貨幣を得ることを覚えた。貨幣を得ることで脳がよろこび、あれが欲しい、これが欲しいと求めては、今まで使ってきたものを全てゴミにしてきた。企業は私たちの欲や不安を刺激すればするほど、自分たちが際限なく成長してゆくことを知っているのだ。私たち消費者が我慢できない体質だと知っているのだ。不安をあおりたて、一日中コマーシャルを流し続ける。そうすれば地面に足をつけない巨大な消費社会がうまれ、脳だけで考えている社会構造ができあがる。

 霊長類学者の山極寿一は、人類がアフリカでチンパンジーとの共通祖先から枝分かれしたのは700万年前、狩猟具を待ったのは50万年前、大きな獲物を協力して狩るようになったのは20万年前で、人類の歴史のほとんどは、肉食獣から逃げ隠れし、集団で安全を守り合ってきた時代だったという。安全イコール安心。だから人間のからだの奥底には、協力しないと安心は得られないという経験が刻み込まれている。安心をつくりだすのは、相手と対面し見つめ合いながら、状況を判断する「共感力」が基となる。人間だけ白目があるのも、視線のわずかな動きをとらえ、相手の気持ちをつかめるように進化した結果だという。現代人と同じ脳になったのは60万年前得たのは7万年前だから言葉なしに構築した信頼関係だったといえる。言葉を使うようになって人類は急速に変化を続けている。みんなの共有地だったものが個人の財産になり、その財産を貨幣に替えることによってまた新たな社会が生まれ続けてきた。対人関係のストレスを消す為に物を買う。脱人間関係を求めて日本中がスマホを操作する。「イイネー」と指先で操作すると、その人と繋がったと勘違いする。つまり対面しないで信頼関係が生まれたような、安心を得たような気になるのだ。信頼関係というものは、もっとゆっくり時間をかけて育ててゆくものではないか。

 

声もたぬ雪大寺をつつむなり  京子

 

 アートハウスの隣人でライ麦畑で育ったナツオは、3歳になったこのお正月を獅子舞とともに過ごしている。今日もニコニコと獅子頭をかぶってやって来た。ちょっとだけ舞ったかと思うと、初対面のお客さんに近づいて、獅子の目でそっと咬みながら「病気にならないように」、「おめでとうございます」と耳元でささやくナツオ。珈琲飲みかけの客も、話に夢中になっているオバチャンも、極上の笑顔で「うわーうれしい!」と獅子に抱きつく。寒の日射しを受けて珈琲がもっとおいしくなった。

17th

繋がってゆく

 まだ一片もこぼさない桜が伊那谷を埋めっくそうとしていたこの四月、「全身マヒの猫サチと仲間たち」の写真展がアートハウスで聞かれた。撮影者は佐竹茉莉子。サチたち十七匹の猫と、ハッピーたち七匹の犬が暮らしているのは房総半島の真中あたり。四方を里山に囲まれた棚田を利用した草地に、オートキャンプ場と「ダム」という名のカフェがある。そのカフェに集う人々と動物たちの日常を切り取った写真展だ。

 陽のあたる里芋畑の中で寝ころがる猫たちに、「コレ」とやさしく声をかける近所のおばあちゃん。洗濯ロープに通したシャツが音をたてて乾いてゆく。遊びに来た少女が「サチー!」と声をかける。アー 馴染の客だ! いいものくれるかな……といそいそ出かける犬や猫たち。そんな風景の中で全身マヒのサチは育った。

 十年前、街中に捨てられ地面を這いずっていたサチ。抱きかかえるとブルブル震えていた。心ある人から人へ、そしてこのダムにやってきた。そこにいたのは、捨てられたのか迷子になったのか、腹ペコで保育園にたどりついた犬のハッピー、骨折したまま花屋さんのバケツに入れられていた猫のミカン、ボス争いに負けて引きこもりになってしまった猫のイチロー、山猫のようなノラ猫がやってきて、ガツガツごはんを平らげ又山にもどって行く前に産み落としていった五匹の子猫。そんな仲間たちと生活しているうちに全身マヒのサチに奇跡がおこった。

 まるで動けなかったサチが、壁に体を押しつけるようにして立ち上がった。そうすると一歩、また一歩と足を踏み出す。バタンー!と倒れる。倒れるとハッピーがかけつけ、サチの顔をペロペロと砥める。体を揺らしながら、コトンと階段を一歩おりる。でもすぐにバタンー! すると又誰かがとんできてペロペロ。

 全身マヒの猫が立とうとする意志とエネルギー。ペット化していない犬や猫たちの暮らし。そしてそれを見守り続けるカフェの経営者。彼女は、私は忙しいから動物たちに弱いものの世話を頼んでいるという。もともと持っている野生の本能だろうか。自分の受けた愛情を次にやってきたものに注ぎ、より弱い存在を愛おしみ見つめる動物たちの世界がここにあった。人間社会では、どこかに忘れてきてしまった共生。

 そんな十日間の写真展。私は会って、もいない大や猫たちと、ピクニックに行っているような錯覚さえ覚えた。私が子供だった頃、村全体が遊び場で、子供たち同士群れて遊び回った。喧嘩をすれば、近くの畑の大人がじっと観ていてくれた。遊び疲れてクタクタになれば、年長者が手を引いてくれた。集団で畦道を走って、どこかのジイちゃんに「コラー! 畦が崩れる!」と怒鳴られた。川を渡れなくて泣いているものがいれば、誰かがガンバレーと声をかけた。村中が遊び場で、村中が子供たちを育ててくれた。子供たちは意見のちがいで喧嘩になる。その喧嘩で泣きながら、ひとりぼっちの淋しさを知り、集団生活の愉しさも厳さ

も体験しながらルールを身につけてきた。

 

 自分の代わりに法務省の刑事局長に答弁させるほど、法務大臣でさえ答弁が危うい共謀罪法案が、折しも強行採決された。テロリズムと共謀罪を同じ視点で考えていいのだろうか。私たちが何を考え、どんなことを思いめぐらせるかは、生まれながらに持っている自由であり基本的な権利だ。心の内にさえ入りこんでくる共謀罪とは、個人の権利を奪うことに他ならない。恐怖心をあおり立て、その恐怖心で人を縛ろうとする。入は思うことすら不安になる。おまけに東京オリンピックまでに改憲を成立させようなどという強引な弁。力には力で抗するという発想は、衝突をもたらすだけだ。それが悲惨な結果を生むことを日本の国は学んだはずなのに。その経験を踏まえてつかみ取った国民主権、人権尊重、平和主義だったはず。それに守られて敗戦後の七〇年があったことを忘れてはならない。憲法九条は、日本の財産なのだ。

 

 毎年冬になると、わが家で一番陽のあたる場所にある簡易室がお気に入りだった猫のチイが、昨年の初冬に死んだ。この冬、室に入ってみると、アートハウスのサラダには欠かせない大根の頭が誓られていた。ハクビシンや狸でもなさそうだし……そうか、鼠だ!天敵の猫がいないことを知ったのだ。

 ある日、畑の真中に積み上げてあった枯草や野の芥を燃やそうと火を放った。小気味よい音を立てて燃え上がった。ライ麦畑で育ったナツオも、ナツオの母親も畑をさらって枯れた野菜くずを集めてきた。炎の中にサツマイモを放り込む。近づけないほどの大きな火に見人っていると、誰かが「鼠だ!」とさけんだ。熱さに耐えかねて枯草の中から飛び出したのだ。ナツオが追いかける。全員で追いかける。草むらの中に追いつめた。すばしっこい生き物を三才のナツオがじっと見つめている。殺せない。ナツオの母親が「お願いだから家に入ってこないでね」とつぶやいた。

 

少年の鏃(やじり)ぴしりと夏に入る 京子

18th

「人形」が生きている

 アートハウスのある上郷黒田が、まだ下黒田村と呼ばれていた元禄年間のはなし。この村に住んでいた正嶽真海という僧侶が、村の若者たちに人形浄瑠璃をおしえたことが黒田人形のはじまりといわれている。当時、大阪で大流行していた浄瑠璃に合わせて人形を操る人形浄瑠璃である。

 娯楽などほとんど無い時代に、好奇心の強い若者たちが飛びついたことはいうまでもない。毎晩、三味線を弾いて浄瑠璃を語り人形を操っているうちに、とうとう産土様で人形浄瑠璃を奉納することになった。若者たちは水を得た魚のように、来る年も来る年も競い合って稽古に励み奉納したが、それは素人の物真似の域を超えるものでは到底なかった。

 そうするうち元禄から享保にかけて全盛を誇っていた大阪や淡路の人形芝居も、時代と共に新しく台頭してきた歌舞伎に観客を奪われていった。演じる場所を失った人形遣いたちは、新天地を求めて地方へと旅にでた。下黒田村にやってきた吉田重三郎もそのひとりである。下黒田村の若者たちを前に、重三郎は人形を取り出すと、浄瑠璃を口ずさみながら一手二手とやってみせた。若者たちは息をころして見つめ、そしてつぶやいた。「生きておる。人形が生きておる」。こうして伊那谷黒田の人形芝居は素人離れした本格的なものへと歩み始めたのだ。吉田重三郎がこの地、黒田の入念寺に葬られたのちも、桐竹門三、吉田亀蔵、吉田金吾、そして文楽座五代目桐竹門造らの指導を得て、若者たちは高度な芸をひたむきに学び取っていった。

 天保10年正月、下黒田村総寄り合いの席で、名主の金左工門は人形舞台の改築を提案。しかし凶作続きで、飯田の殿様からは質素倹約令が出されていた。「質素倹約は大事だが、人形芝居は産土様へ奉納するものだ。そのための舞台を造ることは決してぜいたくじやねえ。村中の者で木を伐ったり木舞掻きをすればいい。真心から神様を崇める気持ちが大事なんだ」と、人形舞台を改築することに決定した。

 人工の棟梁は和泉証書兵衛、人形師たちの助言を得ながら村人総出で天保11年黒田人形の舞台が完成した。8間の長い桁がかかった大きな舞合の中に、通し柱はたった二本という見事な力学的構造である。日本に、いや世界にたったひとつの浄瑠璃舞台を村人が自らの手で造り上げたのである。以来、300年以上もの長い年月、そのままの形で毎年の春祭りに黒田人形は奉納されている。

 

秋の水村の生きざまうつしをり 京子

 

 毎年、黒田人形を観にやってくる多くの人々の中に川本喜ハ郎がいた。「私も旅人のひとりになりたい」といって、彼が息を吹きこんだ人形達とともに伊那谷にやって来たが、夢であった定住が叶う前に病に倒れた。人形達は旧市街に建てられた「川本喜ハ郎人形美術館」に遺されている。

 また人形劇団ひとみ座の須田輪太郎と現代人形劇センターの宇野小四郎

は、黒田人形に出会い、この土地の文化風上に感激し、この地で人形劇人の祭りを開催できないものかと当時の飯田市長・松澤太郎に申し出た。

 当時の飯田市は、市長を先頭に地方自治の活性化をもとめて模索を重ねていた。合併で生まれた16の支所に公民館を並立させ、地区の住民が自発的に参加し活動することを目指していた。どの公民館にも図書館があり公民館主事がいて、いつも住民が集まっていた。住民たちが健康で文化的な生活をおくることを目的にした活動に、この人形劇人からの申し出が生かせるのではないかと市長は感じ取った。

 集ったすべての劇人は手弁当で参加。観劇者はワッペンを購入し、それがどの劇場でも共通した入場券となる。文化会館など市の中心部にある施設だけでなく、16の公民館を活用し地域の人たちが担い手となる。こんなふうに観るものを育て、演じ手を育て、支え手を育ててゆく人形劇カーニバルは誕生した。今から40年前のことである。

 

草紅葉みえざる山をいとはしみ 京子

 

 木犀の香りはしめた青空を眺めながら珈琲をたてていると、あの時の少年の声が聞こえてくる。「これから第1回人形劇カーニバルを始めます」。

 スピードを上げて変化してゆく日本の中で、300年たっても変わらない伊那谷のこころがここにある。

 私たちは続けることの困難さの中で生きている。困難なことに出あったらもう一度出発点にこころをもどしてみよう。きっと何かが見える。

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