アートハウス は 交差点
25th
12月頃から毎日ひとつふたつと咲いていた純白のちいさな侘助が、正月からの暖かさに勢いを増して開き始めた。いつもだったら雪や深霜にやられ、ヒヨドリに芯をつつかれ、黒くなった花たちの奥の方に開いた花の白さに足をとめて覗きこむのだが、今年は見事に全身で咲き誇っている。大地から水を吸い上げ、咲いては散り、咲いては散る潔さは、見ていて気持ちのいいものがある。今年は意を決して、直径三センチ程の技を鋸でばっさりと切り落とした。その大技を活けようとアートハウスの玄関に運び込んだとたん、店内に野の風が吹き、円やかな時間が流れ始めた。
侘助のように一緒にいてくれる花も私の生活には欠かせないものだが、そういう親しみを持たせない、凛とした厳しさを持つ花にも魅力を感じる。同じ白でも朴の花は一線を引いて、私を近づけさせない気高さを持つ。完璧な青空に立つ孤高が、また別の私を刺激するのだ。
季節がめぐれば、木は同じように花をつける。今咲いたばかりのこの侘助と、この木が30年前に最初につけた花とは違いがあるようには思えない。花は昔のままなのに、人の世の変化はどうであろう。本来、人間は考える生き物だったはず。ところが、ますます性能を高めるAIに、人間に代わって判断を任せる領域はどんどん増える一方だ。私たち人間は思考する能力を、このままどんどん失ってゆくのだろうか。それとも……。
この青空に初雪という一花 京子
縄文時代から、いやそれ以前から私たちの暮らす日本列島では、地震、津波、台風、洪水、火山の噴火などの災害がいたるところで繰り返されてきた。近年では阪神淡路大震災、そして東日本大震災の津波と放射能汚染による複合災害、温暖化による台風の巨大化など、規模も頻度も増してくる災害の中にあって驚くのは、こんな災害列島に暮らしてきた日本人のじっと耐えてきた辛抱強さだ。
自然を畏怖し、神に祈りと感謝を捧げてきた先祖たちは、災害のたびに人の世のはかなさを知り、「無常」ということを受け入れてきたのだろう。大地が崩れ、埋もれ、流されても何度でも堤防を築き、田畑を広げ、疏水を引き、隧道を掘るだけの知恵と技術と根
気強さを持っていた,自然の力の強大さに踏みつけられても、無常を知る先祖たちは、奢ることなくコツコツと生活を取り戻してゆく逞しさを持っていたのではないだろうか。
湯湯婆(ゆたんぽ)のどこか心音してをりぬ 京子
世界中で貿易摩擦が生じ、温暖化の影響が深刻化してゆく中で、この国の首相は政治は権力だと勘違いし、国会ではごまかしと言い訳ばかりを繰り返す。そしてこの国は、低い出生率と高齢化による人口減少という型から脱け出すことができないまま、新しい年を迎えた。経済の成長期に働き通した団塊の世代は、家庭貯蓄率が高いのに、社会に不安を感じていて個人消費も行き詰まっているという。というより豊かさを経験してきた世代の家庭には、もう物は十分に溢れているのだ。物が溢れる一方で、擦り減っていったのは心なのかもしれない。豊かになっても、命を繋いでゆくことの意味を見失ってはいないだろうか、命より経済の動向が重視され、温暖化が引き起こす自然界の異常も、放射能がばら撒かれた森や海も後回しにされる。
たったひとつのこの地球には森があり海があり砂漠があり、そこに生きる動物がいる。風が吹き雨が降り、太陽が植物を育て、見たこともないような虫や微生物も棲んでいる。人間は、その地球のほんの一隅に暮らしているにすぎない。都会にいると、あたかも他の生き物など存在しないかのように、人間だけの世界を構築しているようにみえる。
数学者の森田真生は「人間でないものたちと共に生きる」という文章の中で、人間の腸管には百兆個を超える微生物がいる。この微生物を失ってしまえば、食べ物を消化することができない。人体の三十七兆個の細胞には何百のミトコンドリアがいて、遠い過去私
たちの細胞の先祖と共生を始めた彼らが、今もせっせと細胞にエネルギーを供給している。今日食べた野菜たちの栄養は、土中の菌根菌のネットワークの賜物である。人は、いつも人でないものたちと共に生きているのである、と言っている。
私たち人間はどうも人間だけで生きていると勘違いしやすい。除菌、殺菌と神経をすり減らし、多量の医薬品と栄養補給のサプリメントで健康を維持しようとする。そうするうちに地球に暮らすさまざまな生命体の存在と必要性を忘れてしまっていないだろうか。共存することの意味をもう一度思い出す必要があるだろう。
ライ麦畑のナツオは、この春一年生になる。この前、かあちゃんと一日入学に行ってきた。学校からの帰り道、小学生のお姉さんたちが「あの子、今度一年生になるんだね」と囁き合っているのが聞こえた。「こうやって歩くの、いい気分だなァー!」とナツオ。ライ麦畑でハイハイしていたナツオは、四月に一年生になる。
私が俳句を知った昭和50年代は経済が安定成長期にあり、私達の暮らしも社会も目まぐるしく変わっていった。と同時に俳句人口も俳誌一気にふくれあがる最中であった。五七五と指を折ることに精一杯であった私は年一度は龍太先生の出席する雲母の句会に参加した。飯田蛇笏の精神に触れ、俳句の純度というと、選について、俳壇の話など痛烈な批判やユーモアを交えながらの龍太先生の簡潔明快な話に惹きつけられていった。
千里より一里が遠き春の闇 遅速
「春の闇は神秘的で、それと定めがたい不安な感じもあるだろう。更夜、家路をたどるおのれの靴音が、身を離れて宙に泛くおもいがする。闇に中に未生と滅後のいろがひそむ」と飯田龍太は春の闇について語っている。
千里より一里が遠いという矛盾したことばがこんなにも説得力があるのは、単に浮かんできただけのことばではないからだ。大衆の流れのなかで、ともすれば見失い颯になる俳句倫理。しかし見識を持って見つめれば遠のけば遠のくほど明確になり、身消滅後のいろの潜む春の闇の中であざやかになる。
26th
アートハウスのささやかな庭には、鳥の巣箱が夏椿に白雲木にそしてハナミズキにと3カ所架かっている。昨年は、人間の都合で子育ての場所がなくなった雀たちに巣箱を乗っ取られてしまい、賑やかな初夏だったが、今年はいつものように、四十雀のつがいが苔のようなものをハナミズキの巣箱に運び始めた。巣作りが始まったのである。
いつだったか、巣箱の中をのぞいたことがあるが、彼らは抜群に綺麗好きである。乾いた苔などを厚さ5㎝ほどに敷きつめ、雛たちのためにフカフカのベッドを用意する。孵卵した後の殼だって、毎日の雛たちの糞だって、巣箱に残しておくことはない。その美しさは清潔簡で、私が生まれた頃の日本の家屋に似ている。竹の枝でつくった竹箒、箒草でつくった土間箒などを使い分け、身のまわりを整えた。生活に必要なもの以外何もない、簡素な美しさを保っていた。そんな家屋に似ている。
ある日のこと、屋根のあたりにいた雀や四十雀がジィージィージィーと警戒音を放ちはじめた。はじめはクマンバチだろうと思っていたが、どうも騒ぎが収まらない。そのうち客のひとりが「蛇だ!」と叫んだ。どこ?どこ?ほら、あの枝!あっ、次の枝に移った!あそこに蛇の頭が……。何とかしないと四十雀が危ない!
奥のテーブルにいた女性が「私、マムシ捕ったことがある。平気だから」と三脚にのぽり、雨傘の柄で蛇をひっかけたとたん、消えた。蛇が消えた。雨傘の柄に驚いたのかどうかわからないけれど、蛇が忽然と消えたのだ。それから蛇が出没した不安をぬぐいきれないまま、2週間ほど経った。あんなに賑やかだった巣箱が閑かになり、木洩れ日だけが揺れていた。無事、巣立鳥になったとしておこう。
万緑の巣箱が息をしてをりぬ 京子
中国の武漢で発生した新型コロナウイルスはまたたく間に地球上を覆い、人間社会の経済をストップさせたが、はるか昔から人類はさまざまな疫病と出会ってきたのである。日本書紀に最初の疫病が記されているのをはじめ、天然痘、咳逆(インフルエンザ)、麻疹、コレラ、スペイン風邪……。スペイン風邪においては国内の死亡者が39万人といわれている。
疫病が大流行するたび、人々は予防や快復を願って錦絵を求め祈った。その錦絵が浮世絵へと発展して、江戸の文化をつくった。平安京の庭園で、66本の鉾を立てて疫病の退散を願ったことからはじまったハ坂神社の祇園祭も、全国に広がっている祭りの基といわれ、その風土の特性を加えながら現在まで各地で伝えられているのである。
疫病が大流行するたびに医学の進歩がみられ、苦しんだ庶民の中からは、また別の新しい文化がうまれてきた。そして突然のこのコロナウイルスで、絶対的幸福と思っていたグローバル化した経済が、いかに脆いものか私たちは知ってしまった。今まで必要でなかった知識で日本中が、いや世界中がマスクをし除菌を行ない、今まで考えたことのなかった社会の中で立ち止まってしまった。過去に何度も何度も起きていた疫病と、また出会ってしまったのだ。疫病と人間は切り離すことはできないらしい。その長い歴史の上に立っている今、不安だからこそ、
立ち止まって考える必要がある。人間はもともと逞しい生きものなのだ。新たな価値観を発見する時なのかもしれない。
白詰草赤詰草と刈られをり 京子
コロナウイルスが飯田の日常に影響を及ぽしはじめた4月に、アートハウスでは加山隆展が行われていた。加山隆は芸術大学を卒業後、4年ほどドイツカッセル大学で学んだ後帰国。個展やグループ展を重ねてきたが、飯田での個展は初めてだった。油絵といっても、風景や人物を描いているのではない。白い平面のどこかで、黄色っぽい色がぼんやりと浮かんでいる。その色は、絵の具をこすりつけた画面をサンドペーパーで削る、絵の具を置いてまた削ることで生まれる。毎日毎日その繰り返しが染みの深さをつくりあげてゆくのだろうか。
展覧会の初日に、気になった作品の前から動こうとしない女性が現われた。フリースペースである展覧会場の空気が、やわらかな緊張感をもってカウンターまで響いてくる。
加山隆はこう言っている。2002年頃から作品の表面を平らにすることをはじめた。凸凹していることが邪魔に思え、サンドペーパーで削った。ある日、私の作業が時間というものを塗り込める作業になっていることに気がついた。母が亡くなった時も、毎日絵の具をこすりつけ、サンドペーパーで削った。父が亡くなった時も、ひしひしと孤独を感じていた時も、サンドペーパーで削っていた、と。
二度も三度も作品の前に立ち、「あかるい」とつぶやいていた女性。継続によって裏付けられたこの作品は、みる人の心の奥まで染めていたにちがいない。満たされた1週間であった。
27th
2019年12月、中国の武漢から発生した新型コロナウイルスは、あれよあれよという間に地球を覆いつくし、世界中で逃げ場のない状態が続いている。命を守りながら経済を動かすという矛盾に直面し、ひとりでは生きていけないのに密になることを避け、消毒しマスクを着用して毎日を過ごす。
昨日までの私たちの大半は、経済が豊かさの目安と信じて独楽鼠のように働きながら、大切な24時間という時間も、衣食住もすべてお金に換算し、あらゆるものをビジネスチャンスという視点で見るようになっていた。世界中が商業的になり、効率化の支配するスピード重視の社会を築いてきた。多様性を排除し、一元化した価値観とパターン化した社会、そして責任問題ばかりが浮上するようになっていた。何かおかしいぞと誰もが囁いていたはず。
コロナ禍に・直面した瞬間、やっぱり来るところまで来た、と思った人も少なくないだろう。これまでの価値観では立ち行かなくなる、これを変えなければ。変えられるとすれば、このパンデミックがチヤンスになるかもしれない。……といっても、何をどう変えればいいのかわからない。ここでハタと気がついた。私たちって、実は社会で生きるのに必要な判断力を身につけるための実用的な社会科を学校の授業でも、世の中に出ても、家庭の中でも学んでこなかったんだなあということに。
しいて言えば、20歳代の私は絵の仲間たちと毎日毎日飽きもせず絵のこと人生のことを話し込み、他人から青臭いと言われながらも、本音と建前に大きな隔たりがあることを不思議に思っていた。生きてゆく毎日って何だ?本音で生活できない人生って何なのだろうと考え始めた頃だった。あれは私が学んだ数少ない社会科の授業だったかもしれない。
コロナ禍で社会がストップし、緊急事態宣言とともにアートハウスも展覧会やライブは立て続けにキャンセルになり、もちろん密になる会合も中止。不要不急を合言葉に店は静かになった。朝の静けさがそのまま一日続き、新聞をめくる音がアートハウス中に響いていた。読み疲れると、宮沢賢治を真似て「裏の畑にいます。呼んでください」と貼紙をして、ライ麦畑の隣を耕していた。野菜をっくり続けて少し疲れた畑の土を、備中鍬で一打ち一打ち掘り返す。息か続かなくなると、誰もいない地面に腰を下ろして休む。少し青の濃くなった空を見上げていると、常連さんが「珈琲いれて!」と呼びに来る。
夏から秋になり、少しずつライブや展覧会が始まった。この秋に展覧会予定の伏見佳奈子からDMが届いた。タイトルは「透明な箱の中」。こんな言葉が添えてあった。「生まれて初めて白鳥のV字飛行をみました。現実とは思えない美しさとともに、コロナ禍という現実にひき戻されたようなその感覚を、ジュエリーで表現します」と。生みの苦しみを続けてきた伏見佳奈子がどんなジュエリーをみせてくれるのか、ワクワクしながらDMを客に手渡す。
秋雨前線と台風の影響で4日ほどの雨が続き、もう雨はいらないと思いはじめた日曜日、ちょうど、1200光年先にある馬の頭の暗黒星雲や、アンドロメダ銀河などの見たこともない星の写真展を開いていた佐々木茂が、今なら南の空に木星と土星がみえるからと天体望遠鏡を用意してくれた。ライ麦畑でハイハイして育ったナツオも妹のチホも、珈琲飲みながら鬱憤ばらしをしていた2人の男性客も、そして通りかかった若者たちもレンズを覗き込んだ。足元のくらみ始めた地球から、地球以外の星をみる。土星の環に出合った時のかすかな震えとともに、私のいる所は地球か!という少し不思議な気持ちが走った。私の立っているここも宇宙なんだ。
神無月真っくらがりの耳の穴 京子
京都大学が「立ち止まって、考える─パンデミック状況下での人文社会科学からの発信」というオンライン講座を次々と発信している中で、ユニット長である出口康夫の新聞記事をみつけた。近代社会は人間の「できること」に尊厳をみいだしてきたが、できる者とできない者との上下関係が貧富の格差を生じさせた。できることをエスカレートさせてきた結果、人工知能が登場し、人工知能が人間の知性を超えた場合「人間失業」が起きてしまう。人類は言葉を発明し、言語化することで集団で概念を共有してきたが、誰もが根源的な「できない」を抱えていて、支え合わなければ生きていけない存在なのだ。そこに人間のかけがえのなさをみいだし、「できる」ことで競争し合っていた社会から、誰もが抱いている「できない」を基軸にした社会への転換を……と言っている。
白鷺のあし水平に冬に入る 京子
千年たっても変わらない新たな価値観を、私たちはつかまえられるだろうか。コロナで穴が開いた今がチャンスかもしれない。もたもたしていると穴は塞がってしまう。
28th
2月2日の夕方、96歳の母が楽しみにしているテレピ番組をウトウトしながら見ていると、玄関の戸が開いたような気がしたとたん。いきなり障子が開いて「鬼は外!」の声とともにバラバラと豆が飛び込んできた。ライ麦畑でハイハイして育ったナツオと妹のチホだった。母の郎屋をひと回りして鬼を追い出すと、あっという間に消えてしまったと嬉しそうに報告してくれた。
今日は節分、いつもだったら2月3日が節分で4日が立春。一年が365日ぴったりではなく6時間ほど長いため、ずれが生じてくる。前回2月2日が節分であったのは明治30年、124年振りのことだという。節分といえば、 アートハウスの節分草はどうしたかと庭に出てみると、咲いていた!地球温暖化のためか、この10年以上は一カ月ほど早く咲いて節分会と足並みを揃えているが、うれしいような不安なよ
うな気持ちで見ている。
雑巾の角に眼のある朝寝かな 京子
中国の武漢から発生した新型コロナウイルスは、瞬く間に地球を覆った。人々は一日中マスクと消毒をしながら、それでもこれまでの経済を保とうと必死だ。だがコロナ禍の中で立ち止まり、また立ち止まりしているうちに、一元化した価値観とパターン化した社会に違和感を生じ始めているように思う。コロナウイルスの第一波がきて、二波がきて、第三波が過ぎつつある。この先どうなってゆくのか全くわからない。しかし、立ち止まっているとコロナ禍の隙間から様々なものがみえるようになってきた。
求めても求めても際限なくエスカレートしてゆく私たちの欲とは一体何なのか? 働いても働いても支払いが追いつかないこのシステムとは? 何ひとつ自ら生産できなくなってしまった私たちは、すべてのものをお金と交換しなければ生活できない。生活とは、豊かさとはいったい何なのか? 私たちは誰もが自分たちの生きるそれぞれの世界をもっているのに、老後は何千万円必要だから、働ける者は働けという政府。どうも私たちは際限なく利潤を求める資本主義という罠の中に、ドップリはまって身動きとれなくなっているらしい。何かおかしいと思っても、その中から飛び出すことができないでいる。そんな姿がコロナ禍で立ち止まるたびに見えてきた。
突然立ち止まってしまった社会の中で、意思の伝達や情報交換にデジタルを利用することがますます増えているが、これは目の前の便利さと引き換えに、私的な時間、そして個人情報をIT企業に差し出していることになる。信じがたいほどの大量の資本が世界中からIT企業に移動したという。コロナ禍とともに便利なデジタル全体主義が世界を覆い、人と人が対面しないで物事が進んでゆけば、この先どんな人間社会が待ち受けているのであろうか。
私たちは、突然新型ウイルスに襲われたと思い込んでいたが、ウイルス学の権威者である山内一也(やまのうちかずや)は言っている。「これはどのスピードをもつ世界規模のパンデミックは、人類初の経験です。忘れるべきでないのは、人間の側がコロナの生息地へ飛び込んでいったという歴史です。山奥を森林伐採したり野生動物を売買したり、感染を引き起こしやすい環境をつくったのは現代社会です。コロナウイルスの病原性が強くないことは分かっていたので、この弱いウイルスが社会や経済に与えた影響には驚きました。現代社会がいかにもろいかを示したと思います。私たちが戦うべきは、ウイルスではなく我々の社会自体の問題ではないでしょうか」と。
コロナ禍や気候変動の原因は、どうやら利潤を求め続ける資本主義にあるようだ。資本主義社会のスピードを落とさなければ、人間社会はどこに突入していくかわからない。
あけっぴろげに鵯(ひよどり)の啼く真昼 京子
1000年先の私たちを思い浮かべたいなら、1000年前の私たちにヒントがありそうだが、長大な時間過ぎて見当がつかない。でも私の暮らしている上郷の100年前のようすなら、少しだけ知ることができる。
当時、村営電気を求める村人は県に陳情に出向いたが、一喝の下に退けられてしまった。上郷の青年団は「資本主義社会は、資本家が自分の優越した地位を守るために、民衆を圧迫するように仕組まれている。人間生活の基礎となる科学の成果は一部に独占されているが、本来全人類が共有し、生活向上に役立てるものである。今日の生活に欠くことのできない電気事業の経営も同じことで、個人の利益を目的とす
る社会が独占すれば人々の生活を脅かすことになる。村電成功のために民衆の力を信頼しよう」と結んでいる。こうして上郷青年会は大正デモクラシー運動の第一歩を踏み出した。100年前の青年会の意識の高さに感動しながらも、なぜこの姿勢が現在に続くことなく崩れてしまったのか、もう丁度考えてみたい。
29th
巣箱の中で日々育ってゆく四十雀(しじゅうから)の雛を蛇が襲おうとした事件を、以前ここで書いたことがあった。居合わせたた客と退治しようとしたら、蛇が忽然と消えてしまったあの事件は、昨年の今頃ちょうど青葉の季節であった。
すっかり忘れていたそれらしき蛇が、冬が近づいてきたある日、今度はアートハウスの正面玄関に現われた。人の気配を感じると、あっという間にセキヤノアキチョウジの紫の花が咲き乱れる中に消えた。あっ!そこはカナヘビの栖。これまた一大事である。ライ麦畑でハイハイして育ったナツオや妹のチホは、このカナヘビを掌にのせたり尻尾を捕まえたりする遊び仲間だと思っている。
カナヘビはカナヘビ科のトカゲで体は金色(かないろ)、そして日本の固有種といわれている。4、5年前、アートハウスの玄関で日向ぼっこしているのを見た時はギョッとしたが、とかげのいる喫茶店なんてちょっとワクワクしない?
雪の中から芽が出て花が咲き、蝶がきて虫がきて、その虫をカナヘピが捕らえ命をつなぐ。メダカの水を紙めながらヒヨドリの巣の下で、気配を感じているご近所の猫。一年中禽(とり)たちの塒(ねぐら)になっている木々も、今年は恐ろしい程の花を咲かせ、アートハウスに大い
なる日影をつくうてくれている。
珈琲を飲んでいた常連客に、「これ読んで」とパンダコパンダの絵本を差し出したチホ。珈琲の香と男性の声が静かに満ちてゆき、引き込まれてゆくチホの背中。満ちあふれた空気のはず
が、6月になったのにカナヘピも蛇も姿をみせないし、四十雀も巣づくりの途中で放棄。しぼんでゆく心を励ましながら客たちに珈琲をたて、展覧会の日々を過ごす。そういえばモンシロチョウの乱舞もみなかったこの春。
憧れの蛇に覚えてもらいけり 杉浦圭祐
俳句に関心のある7名程度で、月に一度伊那谷のどこかで吟行句会を行なっている。つまり7人が同じ場所で、見えないものを5、7、5に掴み取る。よく切れる鎌のような俳句を掴めれば、私にとって一年分の栄費素となりでくれる。
そんな吟行句会の途中、長野県で一番の樹齢といわれているユリノキをみてゆこうという話になった。ユリノキを正面からみるためには学校の校庭に張りめぐらされたフェンスの内側に入って辿ってゆけばいい,誰でも開けられる簡単な鍵を外せば、ユリノキの根元に出られるのだ。数年前と同じような風姿で私たちを迎えてくれ、その余韻に浸りながら校庭のはじっこを戻ろうとしていたら、「こんにちは!」と校舎の2階から声をかけられた。「何故そこにいるの?」と咎められている感じはしなかったものの、どうも不審に思われたらしい。
そのことを後日若い人たちに話すと「当たり前、立派な不審者です。校庭は生徒以外は立入禁止です」という言葉が返ってきた。不審者と認識され、異質なものとして区別される自分の存在を痛切に感じさせられた。疑わなけれぱ何かが起きてからでは遅いという世の風潮に、昔はもう少し広い範囲で共有できた信頼関係がどんどん狭まっていると感じられる現在の社会。観察や経験を通して自ら孝ぶことで体得できる判断力や倫理観を、小学校では教科書で学ぼうと道徳の時間がつくられた。曰く「公共の精神や豊かな人間性を堵うため」。教科書で道徳を学ぶということは、本来曖昧さや寛容さを持っていたものが、画一的な価値観に陥りやすくなり柔軟さを欠いていくことにならないかと心配になる。インプットされた知識は、ひとつひとつ積み重ねられた自身の経験と結びつかないことには、豊かな人間性や倫理観を育てることにつながっていかないのではないだろか。
どんどんと型を変えながら一向に収まる気配のない新型ウイルスに、社会は再三にわたって立ち止まることを強いられている。ひとりひとりがじっと耐えながらも、大きく変化してゆく社会やシステムの奥に、何故こうも膠着しているのかという、余裕のない日本の姿がみえてきた。これまでのシステムに乗ってきた経済成長を知る世代にとっては、この禍が収まれば元の社会に戻ることができると信じているようにもみえる。しかし経済成長を知らない世代の中には、経済最優先、人間中心に進んできた元の社会に戻るより、もう少し視野を広げて新しい社会を探ることに、道を見いだそうとする若者たちも少なくないように思う。
森羅万象あしなが蜂に贅され 京子
山尾三省は、土は地球そのものであり、生物が地球と一緒につくってきた共同の財産でもある。そこに森羅万象が宿る。その中に自分の好きなものができた時、美しいもの、喜びや慰めを与えてくれるもの、畏敬の念を起こさせてくれるものは何でもカミであり、カミと自己とが調和して一つに融合しな時にまことの自分が現われる、と言った。山尾三省の二十回忌である。
30th
中国の武漠で発生したこの感染症は瞬く間に地球を覆い、わが国でも1波、2波が過ぎ、3波4波、そして今年の夏の東京オリンピック開催でコロナ感染に誰もが身構えた。思った通り爆発的な感染力だった5波も、ある時から風船の空気が抜けてゆくかのように感染者が少なくなった。しかしこれからが冬、コロナの季節である。
こうして2年もの間、細菌やウイルスという感染症とお付き合いさせてもらっていると、どこかで聞いた話が実感として感じられることが多くなった。
作家の上橋菜穂子やウイルス学の山内一也は、ウイルスは私たちを生かしも殺しもする外敵でもあり、私たち自身を構成する重要な要素でもあるとう言っている。その一例として、胎児が父親から受け継ぐ遺伝形質は、母親にとっては異物であるから母親のリンパ球に攻撃されるはず。しかし胎盤には特殊な膜があって、胎児に必要な栄養だけを通し、胎児を攻撃するリンパ球の侵入は防ぐ。この膜の形成にヒト内在性レトロウイルスが関わっていると考えられている、と。このヒト内在性レトロウイルスが存在しなかったら、私たち人間は地球上にいなかったということか。
コロナ以前からキレイが好きな日本人は、ウイルスが敵だとぱかりに99%除菌を謳い文句にした消毒剤を家中に撒き散らしながら、毎日の生活を送っていた中でのこの新型コロナ。普段消毒液を使わなかった人たちまでもが使用せざるを得なくなり、日本中が消毒液にまみれている。もともとウイルスというものは思っているよりも複雑で不思議なもので、優しいバランスを取
りながら進化してきているのに。しかしこの新型コロナが長引けば、消毒がもっと続くことになるだろう。消毒すればするほど人間のもつ免疫力は弱くなっていくのではないだろうか。そうすればまた新たな問題が生まれないかと、心がつぶやき始めている。
というのも以前にも書いたが、数学者の森田真生は「人間でないものたちと生きる」という記事の中でこんなふうに言っている。人間の腸管には百兆個を超える微生物がいる。この微生物を失ってしまえば、消化することができなくなってしまう。人体の37兆個の細胞には何百ものミトコンドリアがいて、遠い過去私たちの細胞の先祖と共生を始めた彼らか、今もせっせと細胞にエネルギーを供給している。今日食べた野莱たちの栄養は、土中の菌根菌のネットワークの賜物である、と。私たちは腸や胃だけで食べものを消化していると思っていたし、腹が満腹になればどんな方法で食物が作られようとおかまいなしであった。健康的な暮らしに敏感のはずが、いつの間にか流行に左右される暮らしに変化してしまった。
農夫らに鋼のごとき秋の闇 京子
夏の間中楽しませてもらえる野菜畑の準備は、4月から5月に始まる。トマト、胡瓜、茄子、ピーマン、万願寺唐辛子。たちまち伸びる草の中から捜し出さなければ見つからない西瓜。甘い香りの花を咲かせるゴーヤは、夏のジュースとして提供している看板メニューである。こぼれ種から発芽したルッコラも紫蘇も目をつけておかねば……。見ている間に胡瓜やモロッコイングンの蔓が空をつかんでいる。急いで支えをしなければ……。里芋の味噌汁は最高だし、乾いた落花生は敬遠したいけど、ゆでた落花生の抜群のおいしさよ。みじん切りにしたバジルを、少々多めの塩とオリープ油で漬け込む方法も教えてもらった。父がやっていたように、腰に鎌をつけて毎朝畑を見回るうちに、たちまち草と野菜が競争し始めた。草を刈っては野菜の収穫、草を刈っては野菜の位置を確かめる。草を刈っては次の野菜の準備をして、そうしているうちに10月になった。
肩をいからせて咲いていた30本ばかりの向日葵も枯れ、畑の真ん中で全身風を追いかけていたコスモスも、フジバカマも、蝶も蟋蟀(こおろぎ)たちも来年への命を抱いてうずくまっている。大根の発芽と共に、こぼれ種から冬菜や小松菜が芽を出した。この緑のみずみずしいこと。そのみずみずしさがパスタの具になる。万願寺唐辛子を手折る時の、あの小気味よき音が響くのは寒露を過ぎてからである。その音が聞きたくて、今朝も手折る。こう書いていたら、アートハウス農園の畑や野菜たちの循環も、ヒト内在性レトロウイルスに似ていないだろうか、とふと思った。
黄落に己れ消さるるごときかな 京子
物質的な豊かさを競いあってきた工業社会から情報社会へと移行してきたとたん、このコロナ禍。人との接触による感染を恐れた人々は、好奇心が強く柔軟な若者を中心にデジタルでの情報社会が一気に広がり、欲しいものだけを求めてデジタルの前から動かなくなった。
しかし便利なものの効率と引き換えに、私たちの心が置き去りにされてしまっていることを忘れてはならない。正確に即答してくれるデジタルもありがたいが、アナログの持つ揺れや曖昧さや余白というような中途半端さが私たちを未来へとつなげてくれると信じている。
31th
「忘れられた日本人」の著者、宮本常一の水仙忌は1月30日である。今年で41回目を迎えた。
一月といえば寒。1年のうちで最も寒い時期だが、家の中で宿こまりながらも、射し込む日差しに昨日とはちがう太陽の濃さを感じてた。しかし夜ともなればまだ極寒。昔から自分の足音を聞きながら歩くことか好きだった私は、そんな極寒の夜の静けきの中をいつも歩いていた。10代や20代は足音を聞きながら「私って何?」「生きてゆくって何?」「日本入って何?」「私はどうしてここにいるの?」という自問自答を繰り返しなから、不思議な気持ちの入口をウロウロしていた。
しかし一方では絵画の楽しみを知り始め、毎年コンクールに著線しては第
三者の評価に一喜一憂していた20代。世の中はちょうど高家禄済成長の真っ只中で、どこへ行っても賑やかで忙しかった。
断層のたちあがりたる冬銀河 京子
宮本常一は15歳で故郷の周防大島を離れ、大阪に移り住み尋常小学校の教員となった。「口承文学」に関心を抱いていた昭和10年に、大阪民俗談話会で渋沢敬三と出会ったことを機に宮本常一の旅が始まる。単なる民俗学者では収まりきれない彼の旅は、地球4周分、旅に暮らした日々は4千日、泊まった民家は千軒を超えたという。
日本文化を作りあげていったのは、農民や漁民であるその生活の息づかいを知るために市井の人々の懐にとびこみ、その土地のしきたりや習慣を聞ききだすことから旅は始まりた。宮本にとって、旅は発見であった。私自身の発見であり、日本の発見であった。丹念に見直すと深い意味をもりていたり、美しさをもっていたり時には生きることの法則のようなものすら見つけることができる、と。不文の約束事が守られることで成りたってきた日本の貧しさと豊かさ。時代と共にどんどん変化してしまうイデオロギーという表層ではなく、もっと底深くに流れる日本人の無意識の慣習をつかみ取り、記録するという旅であった。
「私のロ本地図にシリーズ15巻「天竜川に沿って」のあとがきの中で、「フラッシュもたかず、三脚もつかわず、自分で現像するのでもなく、いわゆる写真をとるたのしみというようなものも持っていない。忘れてはいけないというものをとっただけである。だが三万枚(昭和42年)もとると一人の人間が自然や人文の中から何を見、何を感じようとしたかはわかる。それは記録としてのこるものだと思う」と言っている。
その地の暮らし、その家のくらしを感じとるひとつとして、宮本常一はあとがきでも述べているが、洗濯物の写真が多い。そこに干されたものが手縫 いなのか、ミシンを使って仕上げたの か、既製服なのか、見当をつけることでその場所の暮らしがみえるのだ。昭和30年頃までは干されているものは手縫いが多かったが、継ぎの当たったものを着なくなったのは昭和35年頃が境であったと宮本は言っている。そういえば、私も寝間着がパジャマになった時は、うれしくてこっそり学校へ着ていったし、飯盒炊爨の行事には母が縫ってくれたコール天のジャンパーを着ていった。オレンジ色で手首のところは黄色の毛糸で編んであった。私はれしくてうれしくて蝶々のような気持ちではしゃいでいたが、オレンジ色は目立つ。案の定、クラスのやんちゃ坊主たちに囃したてられた。だが、それでも一向に悲しくも悔しくもなかったことを覚えている。やはり昭和35年頃だっただろうか。
母たちは、やっと手に入れたミシンという機械に感動しながら、家中のカーテンを縫い、家族中の洋服を仕上げる楽しみを得たのもつかの問、世の中が高度経済成長期に突入するや大量生産の洋服が出回り、洋裁学校が消えていった。そんな古い洋服を着ていると恥ずかしい、という声が囁かれたの
もこの時代だろうか。繕うこともしないで捨てていった。新しい季節のたびに追い立てられるように流行の洋服を求め、部屋に収まり切れなくなると捨てる。経済人たちは買わせるために一日中コマーシャルを流し続ける。経済の暴走というよは、富と自由の無限性を求めた私たち庶民の方に問題がなかっただろうか。便利さや物の豊かさという欲望が情報社会によって操作されていることに、もう気づいてもいいはずだ。
本来私たちの脳には「シナブス」という自分で考え、生きる力にしてゆくという機能があるはずなのに、自分で考えることを放棄しAIに操作される情報社会の中に走り出してしまった。私たちはご休どこに向かってゆくのだろうか。日本人は本当
白梅のはじめ水音してをりぬ 京子
4月6日は水神様の祭りである。水不足の心配がなくなりた今の時代まで水神様を守らてきた佳民たちが、感謝とともに水の神様を迎えるハレの日である。
32th
陽ざしが水面の奥に射し込む頃になると、水と泥のあいだで仮死状態になっていたメダカたちが一斉に泳ぎはじめた。メダカの学校は川の中〜そーっと覗いてみてごらん〜……と。普段は気ままに泳いでいるが、ふとした時に全てのメダカが同じ方向に同じ速度で泳ぎ続けることがある。まるで小学校の全校生徒が音楽に合わせ
てラジオ体操をしているように、一糸乱れず泳ぐのだ。そんな時に、意地悪こころもあって餌を撒くと、餌をめがけてグチヤグチヤになる。命あるものは、その命を保つために本能が働くのであろう。メダカも人問と同じであるなと思っていると、心地よい風と共に卯の花の花びらが舞いはじめ、一気に地面を染めた。
卯の花の何もうつさぬ水溜り 京子
富と自由の無限の拡張を求めすぎた果てに、新たな感染症がうまれ、感染症と並行してウクライナとロシアの対立が起こった。私たちはまたまた立ち尽くしてしまった。国家に生きているのは人々である。人々である私たちは、多様な感情や考えをもって生きているのに、政府の方針に国民は不安なまま従い、ジャーナリストたちも政府の方針を伝えることに徹しているようにみえる。初めて出合った感染症。わからないという恐怖心から必要以上に讐或してしまい、政府の発表をじっと聞いた。縛られずにもの言いたいという要求は誰にもあるはずなのに、皆口を噤んでしまい、国民同士がウイルス対策という名目でひとりひとりを管理し合ってしまった。不要不急、マスク、消毒、自己責任、ワクチンという無機質な言葉を毎日重ねた3年間。知らないうちに世の中は「正しい」といわれることに統一されようとしているようだ。
群れて生きている私たちにとっては、人々との関わりは不可欠なのに、不要不急と称して社会を遮断してしまった。偶然という関わりが豊かさを生む。その豊かなるものを排除してしまった3年間。短大生だったら同級生と会わないまま卒業していったにも等しい。
感染対策として休校した全国の学校では、デジタルでの授業の経験を得てデジタル授業が本格的になったと聞く。幼年期のデジタル授業が、脳の育成にどんな影響を及ぽすのだろうか。デジタルの方が理解が深まることもあるだろうが、経済協力開発機構の国際学習到達調査では、デジタルより紙に親しむ生徒の方が、読解力、記憶力が高かったという報告があったにも関わらず、文部科学省は2024年度の本格導入を決めてしまった。
そして払たちは、移動するたぴに消毒、人に会うたびに消毒、どこへ行っても消毒。私たちはウイルスと共に生きているのに、この消毒を3年も続けてしまったのである。私たちの免雍カはどうなっているのだろうか。思うままにならぬ国民を、ウイルス対策という大義名分で従わせる策に気づいてしまった為政者たち。そして不安のままに従い続け、自己責任という見張りをつけられたまま、私たちは今どこを歩いているのだろうか。
文化とは生きる力の土壌である。偶然出合った万物に私たちの心がどんな反応をし、その反応が過去にも未来にもつながり、私たちの精神的生活を育くんでくれるのだ。文化や芸術は政治や経済の外を歩きながら、心理とうそを匂わせてくれる。そしてその匂いを感じる力の礎は、幼年期の生活や遊びの中に潜んでいる、葛藤や喜び、かなしみを重ねることで、判断する力を育ててゆけるのだ。
いくつもの炎天ぬけてきし車 京子
先日2人の女竹客がパスタを召し上がっていたところ、その1人が、アっと小さく叫んだので振り向くと、フォークをもったその女性の指先に脚長蜂か止まっている。それも少々大きめの蜂だ。フオークを握った指にちょっとひと休みというふうに止まっているのだ。アートハウスの建物はガラス窓に囲まれて明るい。女性たちのテーブルは、天井までか窓だからもっと明るい。メダカの水槽の水を含んだであろう脚長蜂は、明るい方向を間違えて室内に入ってきてしまったようだ。
命をもったもの同士がこんな所で遭遇してしまったが、入間の指でひと休みしているだけで敵意などもっているとは思えない。お互いに無傷でサヨナラしてもらうにはどうしたらいいのか。一歩間違えば、アナフィラキシーショクの危機と背中合わせである。咄嵯に、使いふるした柔らかい台ふきでサッとすくった。刺されなかった。これも偶然の産物。今年は蜂が多い。
33th
私たちは伊那谷吟行句会と称して、月に一度伊那谷のどこかで吟行句会をおこなっている。場所を定め、一時間ほどの吟行とともに五句作句。それから俳句会が始まる。
この10月は、アートハウスの北側で発掘している天明神原遺跡Bがあらかた調査し終わったという情報が入ったので、まだ発掘中の天明神原遺跡Bを吟行場所とした。
文化財保護活用課の春日宇光さんの説明によると、ここは縄文遺跡と弥生遺跡が同じ場所に存在し、ふたつの時代の竪穴住居15棟の痕跡が見つかっている。つまり1万年前の縄文時代早期から2千年前の弥生時代までの集落跡ということだ。
地表面を30センチほど削り取っただけで現われたこの遺跡は、赤土で日当たりがよい丘に位置し、湧き水や森林もあり生活に適した場所だったと思われる。その時代のおもかげが今に伝わる天明神原である,私が幼少期に集めた鏃の多くは、やはりこの遺跡に続いている大明神原で拾ったものだった。きっと広葉樹の繁る明るい森だったに違いない。森にはイノシシなどの獣たちが棲息していて、獣を見つけた人間たちは集落まで追い込み、集落内に掘った落とし穴に落とす。自然が与えてくれるものを享受しながら、祈りや希望、鋭い観察力、個々の豊かな考え、あらゆる生きるための知恵を集落で共有しながら当時の人々は日々暮らしていたのだろうと想像する,
一面の赤土の大地に穿たれた700ヵ所に及ぶさまざまな穴。その穴を2022年10月の太陽が照らしている。日向と日影のコントラストの美しさに心を奪われ、思わず立ちつくしてしまった。
一切が土の中なる小鳥くる 京子
春日さんの若く静かな声がまだ続く。「縄文人は住居を移動する時は、炉を崩してゆくのが一般的ですが、ここにはほぼそのままの炉がひとつ残っています。そしてこれは貯蔵庫。ここにも落とし穴」と。
獣を落とし込むくらいだから、人間が何人も飛び込めるくらいの大きくて深い穴である。そしてこの縄文遺跡は私に思いもよらぬものに出会わせてくれた。私の両手よりひと回り大きいくらいの甕が半分土から姿を現わしている。裏側はまだ土の中に埋もれている発掘中の甕だった。甕の口は石の蓋でぴったりと封じられている。これは埋甕(うめがめ)いって、縄文時代の住居の出入口に意図的に埋められたものだそうだ。1万年も経ているから中に入れられていたものは姿を残していない。春日さんによれば、亡くなった子どもの胎盤が納められていたものらしい。出入口は人の通る所である。その場所を踏むことによって、いのちの再生、母体へのエネルギーを得ていたのだろうという。そういえば地面をしっかり踏むことで命の再生を促すという新野の盆踊りも、縄文時代からつながっているのかもしれない。
断わられることを承知の上で「あのー、触らせていただけませんか?」と恐る恐るお願いしてみた。両手で甕に触れたとたん、私の体の中をアドレナリンだかホルモンだか何か得体のしれないものがジワーっとめぐり、収拾できない感情とこの家族に触れた想いが気分を高揚させ、それから4、5日の間私を饒舌にさせていた。この埋甕に触れたとたん、こんなにも溢れるように伝わってくるものとはいったい何なのだろう。日本人の基層文化に流れる想念とでもいおうか。
生まれたるままの秋ぞら埋み甕 京子
ライ麦畑でハイハイして育ったナツオも小学3年生。ラグビーやドラムで体力を発散させながら、先日もトウチャンと魚釣りに出かけた。そのナツオがウクライナとロシアの争いを知って「戦争はなぜおきるの?」とカアチャンに質問したそうだ。だが「うまく答えられなかった」とカアチャン。さて私たちはどれだけの人が子どものこの問いにに笞えられるだろうか。に笞えられるだろうか。
ウクライナとロシア、そしてコロナの関係から生じた世界中の経済変動の中、社会の変化に翻弄され自給できない燃料や食糧の不足に不安は増している。グローバル化した世界では、遠くの国の話ではなく、私たちの日常とすべて経済で直結しているのだ。人類は700万年命をつないできた中で言葉がうまれたのはつい最近のこと。気の遠くなる程長い間お互いの目をみて共通認識を確かめながら命をつないできた人類はやがて言葉を得た。言葉を得たことで文明のスピードがあがり、現在ではソーシヤルネットワーキングシステムの社会である。デジタルは便利であるが、便利さに翻弄され大切なものを忘れてしまっているのではないだろうか。遠い昔の埋甕に触れたことで、小さな社会の人々のつながりの強さと、人と大地の結びつきの深さの原点に引き戻されたように感じている。
すぐそこで四十雀が鳴いている。
34th
35th
いつも仕事帰りに珈琲とおしゃべりで休んでいってくれるノマキさんが、熟しきったゆすらを手折ってきてくれた。「ハイ、甘いよ!」と勧められ、その実の見事さに思わず手を伸ばしたが、渋かった。
別の客が「お、茱萸(ぐみ)、夏だね。田植えを思い出すね」と言いながら手を伸ばした。低い声で「渋いね!」。次の日ノマキさんがいつもの席に座りながら、昨日とはちがう隣人にゆすらを勧めた。客はいい色だねと褒めながら、「あ、甘い!「おいしい!」。え、甘い?おいしい?ノマキさんもニコニコ顔でゆすらを口に含んだが、私はあの時の渋さが口中に甦っただけだった。人の感覚には個人差があることを忘れていた。その微妙な差が実は私たちの日 常に奥行きや広がりを作り出してくれている。
賑やかなのはカウンターだけではない。アートハウスの夏椿にくくりつけた巣箱からの巣立ちはなかったが、ご近所の雀たちの巣立ちがアートハウスの駐車場で繰り広げらた。ほらほら車にひかれちやうよ。ヨタヨタ、チョコチョコと蹲(うずくま)っている小雀たちに、親心のつもりで近づく人間たちのおせっかい。本物の親雀たちはエサを姪(くわ)えながら見守る。三者三様にチッチチッチと騒ぐ。最後の雛が、あ、飛んだ!地面と水平に飛びながら、アートハウスの看板にぶつかったもののそのまま飛びきった。どうやらご近所の雀たちも無事巣立ったなと安心したとたん、夕日だけの駐車場が淋しくなった。
しばらくは風となりたる巣立鳥 京子
78年前14歳だった澤地久枝、20歳だった櫻井こうは満州古林に暮らしていた。満州での敗戦体験を若い人たちに伝えようと企画した、「満州体験を語りあう会」の日がやってきた。地元をはじめ、福島、東京、神奈川、名古屋、京都から集まってくれた120名ほどの参加者で会場は溢れ返っている。一番の主人公である満州を知らない小学生から30代までの20名は、一番前の席で澤地久枝、櫻井こうと向き合った。
実行委員の三沢亜紀、伊藤緑のほか自主参加のスタッフ6名。事前の打ち合わせはなくても、全員が今日のこの会の大切さを認識することで信頼し合い連帯していることがわかる。静かにしっかりとした足取りで、満州という場所の説明から会は始まった。
澤地久枝が満州へ渡った4歳の時、すでに日本は満州国と宣言していたが、日露戦争で日本が満州での権益を入手したことから始まる満州の社会背景を澤地久枝が説明する。櫻井井こうは開拓地で迎えた敗戦その日に、暴徒らによって家も家財も失い開柘民たちと逃げまどったことなど、時代の波にのせられて生きてきた生活者の体験を語った。
澤地久枝と櫻井こうの生の体験似が時に静かに、時に賑やかに響く。青酸カリを渡されかが。自分たちは生きてこの惨事を伝えようと決めた櫻井こうたちの集団。
闇のコーリャン畑を子供を泣かせないよう静かに静かに移勤していた時、「私たち同胞です。うちへ泊っていってください」と劫けてくれた朝鮮の人たちの声。あるかないかの食料で体力を失い、朝になったら亡くなっていた開拓民たち。三分粥の中に野良犬の肉と言われてごちそうになってしまったが、それはポチだったこと。
可愛くないわけがない自分の子を絞め殺さざるを得なかった人たち。私らの神経がおかしくなって、人が亡くなっても悲しい寂しいではなく、ああ、逝っちゃったなと思うだけで、人情や感情をすべて消さなければ生きてこられなかったことを淡々と笑顔で話してくれる櫻井こう。ハルピンで生まれた渡辺一枝も加わって、満州の話がまた深まる。
「ものを考える切っ掛けないなったのは満州の暮らしがあったからです。真実を知るためには歴史を知らなければならない。日本が過去にどんなことを行ってきたかという歴史を知ることか大事」と澤地久枝。「今日の話の中でわからないことばかりであっても、わからないそのことを覚えていてください、きっとこれから出合います」と渡辺一枝。
水田殖ゆ「こう」や「久枝」や喧(かまびす)し 咲子
ライ麦畑でハイハイして育りたナツオも4月で4年生になりた。そのナツオの日記。
5月20日 土曜
今日はさくらいこうさんとさわ地ひさえさんの話を聞きました。・・・二人か話したのはまん州のことです。せん時中二人はまん州にいました。げん地の人は、こうさんの味方になってくれる人やおそおうとする人がいたそうです。その時犬やねこや虫を食べていたそうです。犬のことですが一しょにいた人がかっていた犬で、その犬の名前はポチでした。犬はかわいそうだなと今書いていると言ったら、母さんが「食べるものがなんにもなかりたんだよ」と旨っていました、頭がゴッチャになりました・・・こうさんたちの話を聞いて思ったことは、なぜ中国でこうさんの時にせんそうか起こったのに今またせんそうが起こるかもしれないのはなぜかなーと思います。
36th
地球が沸騰している、ということばが飛び交うほど今年の夏は暑かった。初夏に植えた夏野菜は、あの射すような太陽の日差しの下で、夏草に守られながら育った.私たち人間が夏バテでっぐたりしている間も夏草は茂りに茂って、育ち盛りの夏野菜をあの太陽から守ってくれた。仇のように思ってい草々に助けられ、私たちは恵みを与えられた。
ところで、この数年畑仕事をしながら気になっていることがある。ニ十四節気の一つである冬至にいただく「冬至南瓜」用に貯蔵してある南瓜が、冬至前に腐り始めてしまうのだ。昨年も一昨年も腐ってしまった。我が家で育った南瓜を、一番夜の長い本格的な寒さの入口である特別な日に、食卓にのせることができないとは!もちろんスーパーヘ行けば一年中いつでも南瓜は置かれている。日本各地から、南半球の国から、つまり世界中から出荷された南瓜が並んでいるから食卓から消えることはないのだが、それもちょっとおかしな話だ。「冬至南瓜」という日本人の知恵や季語がますます形式だけになってしまいそうだ。日本の基層文化としての食生活と地球の気候がずれ始めていないだろうか?
冬至の日は生命力の最も減ずるときで、この国では南瓜をいただいたり柚子風呂に入ることによって、無病息災を折るという風習がありた。現代においても日本人の心にはまだまだそれが残っていると思っている。「自然は山川草木や自然現象から動物や人間までの森羅万象を包括するものであり、そ
れは何の意図も計画もなく、おのずから事物を生成し、変化させ、衰退させ、また再生するといった無限の運動なのである」と佐伯啓思は言っている。
私たち入間だけが優れていると勘違いをしながら走り続けでいるうちに、経済中心という資本主義に私たちがどっぷりとはまってしまった結果の一つが気候変動だろうか。南瓜が腐ったり、夏野菜が日差しの強さでやけどするのも、なんだか落ち着かない。変だ、変だと感じていたことが、今年のように地球が沸騰と言われ始めると、薄皮一枚隔てた向こう側で何か待ち構えているのだろうとますます落ち着かない気持ちになる。
資本主義は世界中に経済格差を生み出し、その格差に関係なくあらゆる所で環環境問題を生じさせた。未知のウイルスが世界中に拡散し、あちこちで洪水や山火事が起こり、そして各地で勃発する戦争。すべて資本主義の末銘とつながっているのに、さらに私たちに過剰な消費を促す日本の政府は何を見ているのだろう?
深い学問に裏付けられた専門家の知見は、国民の財産と言われている。その学術会議はまだ6名が任命されないままでいる。それも菅義偉前首相による任命拒否の理由が「説明できることとできないことがある」いう法の根拠もないままの任命拒否である。気候変動や感染症、人工知能などの問題が山積している中、政府や国の機関が見逃す課題や解決法を発見しつなげているのか学術会議である。日本の財産である学術会議の独立と自立を、私たち社会かどう後押しできるだろうか。
地に足をつけてあるきぬ葱畑 京子
冬至南瓜のことを考えていたら、阿智村の友人から「これ食べない?」と清内路南瓜が届いた。清内路南瓜は表皮か固く、煮崩れしにくく甘いのが特徴日保ちし、長く置けば置くほどおいしくなるとのこと。いただいた清内路南瓜3個をおいしく食べ切ったのが2月の末だった。今年の春その種を蒔いて、
7個の清内路南瓜が実った。さっそく阿智村役場に清内路南瓜のことを問いなわせてみた。
ことの始めは明治時代に北海道からデリシャスという南瓜が届いたことにある。それから100年種をつないで育て統け、平成19年清内路南瓜は阿智村の伝統野菜に認定されたとのこと。
北海道の寒いところで育った性なのか、南瓜の皮の固いこと包丁を入れて身動きとれなくなり、どうしたものかと思ううちにやっとのことで切れた冬至南瓜はこれでひと安心である。それにしても炎天下で咲き続けながら虫を呼ぶ南瓜の花のなんと見事なことよ。ましてや南瓜という植物は人間に食べられるために命を維持してきたのではない。南瓜は南瓜の生命を維持するために種を保ち続けているのである。だから「いただきます」という折りが、私たら日本人の心の中にあるのではないだろうか。
私の暮らすこの地に、人間が住し始めた縄文時代から人々は幾度も危機に出合い、その度にありとあらゆる所にひっそりと存在するカミに祈ってきた。自然界のありとあらゆるものに生命というものをみてきた私たちもまた、自然の中で命を育んできた。大地が南瓜を育て、その南瓜の葉が南瓜の実を育てた。もう一度「いただきます」の折りにも近いそのことばを噛みしめたい。